坂上田村麻呂
■坂上田村麻呂
▶︎柵址でたどる田村麻呂の武勇、知勇の道程
東北南部に陸奥国を置き、蝦夷地進出をうかがっていた朝廷は、645年の「大化の改新」後、懸案事項の東北進出に乗り出した。まず、647年、足がかぬたりりとして新潟県北部に浮足柵を造営。この柵(城柵)は砦の機能だけでなく、行政機能も併せもっていた。というのも、ここに派遣された征討軍の兵士たちは、開墾にも従事する農民兵だったからである。浮足柵造営以後、平定は順調に進み、733年の秋田柵(のちの秋田城)造営までには、日本海側の蝦夷地(主に最上川、雄物川流域)がほぼ平定された。
しかし、問題は太平洋側である。朝廷は724年、東北経営の拠点として多ものう賀城を造営。以北の蝦夷を巧みに牽制した。その後、759年に桃生柵、767 これはり年に伊治城を築き、着々と支配領域を広げていくかに見えたが、やがて征討軍の北上は停滞してしまう。東北一の大河である北上川流域を支配する蝦夷の抵抗が苛烈を極めたためである。780年にはいったん朝廷に帰順してこれはりのあさまろいた伊治告麻呂が造反して、多賀城が落城。一進一退の苦しい戦いが続けきのこられた。特に5万の大軍を率いて一気に北上川流域を平定しようとした紀古さみ佐実の征討軍は、蝦夷最大の首長であるアテルイの地の利を生かしたゲリラ戦法に手を焼き、巣伏の戦いで大敗。朝廷の面目は九つぶれとなってしまった。
そこで朝廷は794年、田村麻呂を征夷副使とした征討軍(征夷大便ほ大伴おとまろ弟麻呂)を派遣した。10万の軍勢を前線で指揮したのは、田村麻呂である。田村麻呂は史書『日本後記』(840年成立)に「赤ら顔で黄色の髭を蓄え、身の丈1.8メーいレ近く、体重は120キロもあり、猛獣さえ恐れた」と記される畿内随一の武人。朝廷の期待にみごとに応えて、北上川流域にあった70以上の蝦夷村を焼き払い、破竹の勢いで勝ち進んだ。その吉報を受けた朝廷が797年、田村麻呂を征夷大将軍に任命すると、瞬く間に胆沢地方を平定し、802年、意表を突く作戦(下欄「クローズアップ」参照)を決行して、アテルイを降伏させた。このとき田村麻呂は、勇者アテルイと副官モレを京に連れ帰り助命を嘆願したが、聞き入れられずに両者は京都で刑死している。
■「ねぶた」の由来
▶︎アテルイを打ち破った奇策がルーツ
「ねぶた(ねぶた)」の起源は諸説あるが、田村麻呂の武勇起源説が広く知られている。征討軍を苦しめたアテルイは、山間部での野戦を得意としていた。軍勢を打ち破るために、田村麻呂は敵が潜む山中で松明をかざし、太鼓や笛を打ち鳴らして行軍する奇策を立案。夜半に深山を鳴動させて進む行列に興味をもったアテルイ軍が現れると、隠れていた征討軍が包囲。田村麻呂の知略に脱帽したアテルイは、征討軍に投降したという。ねぶた祭で、田村麻呂の山車灯籠が曳かれる理由もここにある。
■坂上田村麻呂(758〜811)
代々朝廷に仕えた武家の生まれで、若くして武勇の誉れ高く、797年に征夷大将軍を拝命。北上川、雄物川以南の蝦夷地を平定して、朝廷の北方支配の足がかりをつくった。桓武、平城、嵯峨の3天皇に仕えた。