蘇我氏・古代豪族の興亡

■はじめに

 大化改新について、高校の授業などでほ、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)の協力を得て蘇我氏を滅ぼし天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した、と説明されているのではないだろうか。

 そのため、元々「聖徳太子に始まる国制改革を邪魔した悪役イメージが付きまとっていた蘇我氏は、「大化改新によって滅亡した」と思われがちである。また、一般的には、「壬申(じんしん)の乱(672年)では、蘇我氏をはじめとする大家族が中心となっていた近江朝廷を大海人皇子(おおしあまのみこ)が倒し、神とも称された天武天皇となって律令国家を建設した」ことで大団円を迎え、めでたく日本古代国家が完成するかのように考えられているものと思われる

 


 しかしながら、蘇我氏は大化改新(乙巳の変・いっしのへん)によって滅亡したわけではない。滅ぼされたのは蝦夷・入鹿といった蘇我氏本宗家(ほんそうけ)のみであって、その後も中央豪族である大夫(マへツキミ)層を代表し、倭王権を統括する大臣(オホマヘツキミ)家としての蘇我氏の地位は揺らぐことはなかった。蘇我氏の氏上(うじのかみ)が蝦夷・入鹿系から倉麻呂(くらまろ)系に移動したに過ぎないのである。

 同様に、蘇我氏出身の女性が大王(だいおう)家のキサキになることも、引き続き行なわれた。蘇我氏の血を引く王族は、奈良時代の半ばに至るまで、重要な位置を占めることになる。

 そして蘇我氏は氏族としての在り方を変えながらも、古代を生き延び、中世を迎えている。これは他の古代氏族と何ら変わりのない歩みである。

 また、蘇我氏は元来、けっして旧守的な氏族ではなかった。それどころか、蘇我氏は、倭国が古代国家への歩みを始めた六世紀から七世紀にかけての歴史に対して、もっとも大きな足跡を残した先進的な氏族であった。渡来人を配下に置いての技術や統治の方式、またミヤケ(屯倉)の経営方式に見られる地方支配の推進を見ていると、蘇我氏主導であっても、つまり、たとえ乙巳の変(いっしのへん)や白村江(はくすきのえ)の戦壬申(じんしん)の乱が起こらなくても、遅かれ早かれ、いずれは倭国は古代国家へと到達していったのではないかと思われる。

 

 六世紀初頭に蘇我氏が成立してから、十二世紀の平安時代末期までを視野に入れ、古代氏族としての蘇我氏の興亡を描いていく。

 まず第一章「蘇我氏の成立と稲目(いなめ)」では、天国排開広庭(日本書紀・あめくにおしはらきひろにわ・欽明・天国押波流岐広庭天皇・古事記・)王権の成立と関連した蘇我氏の成を論じ、始祖である稲目の権力の源泉を解明していく。次いで第二章「大王推古(おおきみすいこ)と厩戸王子(うまやのみこ)と島大臣馬子(しまのおほまへつきみうまこ)では、隋帝国の中国統一という東アジア情勢を承(う)け豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(推古)の代の権力集中と国制改革を論じ、二代目馬子の果たした役割を説明する。また、この時期に分立した蘇我氏同族について述べ、その意義を読み解く。

 第三章「豊浦大臣蝦夷(とゆらのおほまへつきみえみし)・林太郎入鹿と乙巳の変(いっしのへん)」では、三代目蝦夷とそれに続く四代目入鹿が、どのように激動の東アジア国際情勢に対処しょぅとしていたのかを推測する。そしてその対応が乙巳の変を導く原因となったことを明らかにする。

 

 そして第四章「大化改新から壬申の乱へ」では、大化改新以後の蘇我氏の地位の変遷を、大臣(オホマヘツキミ)や大夫(マヘツキミ)をはじめとする官人としての地位と、大王(オオキミ)や王子(ミコ)のキサキとしての存在感を軸としてたどっていく。さらには、壬申の乱における蘇我氏の立場とその結果を確認して、石川氏としての新生を見る(反乱者である大海人皇子<天武天皇>が勝利する)

 

 第五章「律令官人石川氏と皇位継承」では、奈良時代初期の自主位継承に関わる蘇我系皇族の占める位置とその意義を考え、また律令宮人としての石川氏の地位の変遷をたどっていく。

 第六章「ソガ氏への復帰」では、平安時代初期にふたたび「ソガ」を名乗る改姓の意義を考えると共に、かつての蘇我氏同族のその後の変遷をたどる。

 最後に第七章「摂関期における生き残り」では、摂関期から院政期までの宗岳(ソガ)氏、および蘇我氏同族の諸氏が、どのように生き延びていったかを、主に古記録を読み解くことによって追跡する。

 蘇我氏の興亡を究明することは、古代氏族そのもの、ひいてほ日本古代を究明することである。それでほこれから、古代国家の成立と展開を、蘇我氏を軸として語っていくことにしよう。

 なお、大王および天皇の誼号(しごう・主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである)は、原則として各節の初出は和風誼号を先に、奈良時代後半に定められた漢風諡号をカツコ内に入れて表記し、二回目からほ漢風註号のみで表記する。また、王族および皇族の称号は、天命開別(あめみことひらかすわけ・天智・てんじ)以前は王子(みこ)・王女(ひめみこ)天淳中原遍真人(あまのぬなはらおきのまひと)・天武)以降は皇子(みこ)・皇女(ひめみこ)、大宝律令制以降は親王・内親王と表記する。

■第一章 蘇我氏の成立と稲目

 蘇我氏は、倭国が古代国家への歩みを始めた」八世紀から七世紀にかけての歴史に対して、もっとも大きな足跡を残した氏族である。

 大王大泊瀬幼武(おおきみおおはつせのわかたけ・雄略・ゆうりやく)が死去して以来の列島全体の動揺ほ、六世紀初頭に越前から「男(おおどのみこ)大逆王」を迎えて即位(継体・けいたい)させてからも続いた。このような動揺は、六世紀前半に、蘇我氏の勢力を背景にした天国排開広庭王子(あめくにおしはらきひろにわのみこ)の即位(欽明・きんめい)によって、ひとまず収束した。

 大王欽明と蘇我稲目の下に結集した倭王権の支配者層は、国内における王権の分裂、国外における対朝鮮関係の緊迫に際して結集し、それまでの原初的な政治体制を越える新たな段階の権力集中を果たしたのである(倉本一宏「氏族合議制の成立−「オホマヘツキミ・マヘツキミ」制」)。

 まずは蘇我氏自体の成立を論じ、その始祖である稲目の権力の源泉を解明していくことにしよう。

■一、蘇我氏はどこから来たのか 

▶︎蘇我氏の本拠地 

 蘇我氏の本拠地については、大倭国高市郡曽我とする説、大倭国葛城(かつらぎ)郡とする説、河内(かわち)国石川郡とする説が存在する。しかしこれらほ、蘇我氏の時代による変遷や同族氏族を一緒して考えた結果によるものである。その他、蘇我氏を百済からの渡来人と考える説もかつては存在したが、これについては後に述べよう。

 大倭国高市郡曽我については、現在の奈良県橿原(かしはら)市曽我の地(近鉄大阪線真菅駅のすぐ西)に宗我坐宗我都比古(そがにいますそがひつこ)神社が鎮座し、『紀氏家牒(きしかちょう)』に、

 蘇我石河宿(いしかわすくね)の家、大倭国高市県蘇我里。故に名づけて蘇我石河宿禰と云(い)ふ。蘇我臣・川辺(かわべ)臣の祖なり。 

       

という記述があることを、主な根拠とする (本居宣長『古事記伝』など)。

 この他から南東方向の軽(かる・大倭国高市郡軽、現橿原市大軽(おおがる)町)、豊浦(大倭国高市郡豊浦)、小墾田(おはりだ・大倭国高市郡小墾田、現高市郡明日香村雷(いかつち)から奥山)、飛鳥にかけて蘇我本宗家の居所が所在し、後に述べる蘇我氏同族氏族がこの周辺を本拠地とすることからも、曽我というのが蘇我氏にとって重要な地であったことがわかる。

宗我坐宗我都比古神社

 大倭国葛城郡については、『日本書紀』の推古紀皇極紀(こうぎょくき)に見える蘇我氏と葛城地方(現奈良県北葛城郡広陵(こうりょう)町か葛城市、御所(ごせ)市にかけて)との関係に史実性を認め、五世紀の葛城氏(かずらき)正確には、「葛城地方に本拠を置く複数の集団」)と蘇我氏との関連を想定した、あるいは葛城集団から蘇我氏が発生したという考えである(加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』など)。

 河内国石川郡については、後に述べる『日本三代実録』の元慶(がんぎょう)元年(八七七)の記事に、

 右京の人前長門守(さきのながとのかみ)従五位下石川朝臣木村(いしかわのあそんきむら)・散位(さんい)正六位上箭口(やくち)朝臣岑業(みねなり)、石川・箭口(やくちの)を改め、並びに姓宗岳(そが)朝臣を賜ふ。木村言(もう)す、「始祖大臣武内宿禰(たけしうちのすくね)の男宗我石川(そがのいしかわ)、河内国石川別業(いしかわのべつぎょう)に生まる。故に石川を以て名と為す。宗我大家(そがのいしかわ)を賜はり居と為す。困りて姓宗我宿爾を賜はる。浄御(きよみが)原天皇(はらのすめらみこと)十三年、姓朝臣を賜はる。先祖の名を以て、子孫の姓と為すは、諱(いみな)を避けず」と。詔(みことのり)して之(これ)を許す。 

 

と見え、蘇我氏が改姓した石川氏が、先祖(と主張していた)蘇賀石河宿爾(そがのいしかわすくね・宗我石川)か河内国石川別業に生まれたとあることから、蘇我氏そのものの本拠地も河内国石川郡であったと考えるものである(黛弘道『物部・蘇我氏と古代王権』など)。このように考えると、蘇我氏は河内国から大倭国(「宗我大家」)へ進出したということになる。

 しかしこれほ、後に述べるように蘇我本宗家が滅んで、蘇我倉氏(そがのくらし)が蘇我氏の氏上を継承し、これが石川氏へと改姓した後に主張された祖先伝承であろう。

▶︎蘇我氏渡来人説

 これらとは別に、かつて、蘇我氏自体が渡来人であったという説が提唱された (門脇禎二『新版飛鳥−その古代史と風土』)。『日本書紀』で応神(おうじん)二十五年(四一四年〜)に渡来したという百済の高官・木満致(もくまち=木ら満致・もくらまんち・『百済記』や『日本書紀』に伝わる5世紀頃の百済官人。)と、蘇我氏が先祖と主張している蘇我満智が同一人物であると考えるのである。

 この蘇我氏渡来人説は、その後も何人かの有力な研究者に受け継がれ(山尾幸久「日本国家の形成』、鈴木靖民「蘇我氏は百済人か」など)、現在でも世間では蘇我氏が渡来人であると考えている人に出会うことがよくあって、本当に驚かされる。

 ここで登場する蘇我満智というのは、平安時代初期の弘仁2年(八一一)に成立した『歴連記(れきうんき)』を基に十一世紀初頭に成立した『公卿補任(くぎょうぶにん)』宣化(せんか)天皇御世に語られている系譜、

 満智宿禰・・・韓子(からこ)・・・高麗(こま)・・・稲目宿禰(すくね)

や、これも平安時代初期に成立した『紀氏家牒』に語られている系譜、

蘇賀石河宿禰・・・満智宿禰・・・韓子宿爾・・・馬背宿禰(亦(また)に曰(い)ふ高麗)・・・稲目宿禰 

に、稲目(いなめ)の曽祖父として見える人物である。また、満智と稲目の間の人物が、韓子(からこ)や高麗(こま)といった「朝鮮風」の名前を持つことも、蘇我氏渡来人説の根拠とされてきた。

 しかし、「木満致(もく まんち)」の名が見える『三国史記』百済本紀・蓋歯(がいろ)王二十一年(四七五)と、応神二十五年とでは、随分と時代が異なる。だいたい、誉田(ほんた・応神)自体の実在性にも疑問があるので、その年紀を安易に結び付けるのは問題であろう。

 済の国事を執(と)ったとされる木満致が「南行」したというのを、倭国に渡来(亡命)したという解釈にも無理がある。普通に考えれば、百済の初期の王城であった漢城(かんじょう・現ソウルの漢江南岸)から「南行」するというのは、百済南部の熊津(ゆうしん・現・忠清南道公州・ちゅうせいなんどうこんじゅ)あたりに逃避したことを指すものであろう。

 また、蘇我氏自体の成立が六世紀に下るので(氏「ウヂ〕の成立も同様である)、五世紀の人物とされる満智の実在性にも疑問が多い。先に挙げた諸説は、大同二年(八〇七) に成立した『古語拾遺(ごごしゅうい)』雄略(ゆうりゃく)天皇の、

此より後、諸国の貢調(みつきもの)、年年に盈(み)ち溢(あふ)れき。更に大蔵(おおくら)を立てて、蘇我麻智(まち)宿禰(すくね)をして三蔵〔みつくら・斎蔵・いみくら・内蔵・うちのくら・大蔵〕を検校(しら)しめ、秦氏(はだ)をして其の物を出納(あげおろし)せしめ、東西の文(ふみ)氏をして、其の簿(しるしぶみ)を勘(かんが)へ録(しる)さしむ。是を以て、漢(あや)氏に姓を賜ひて、内蔵・大蔵と為す。今、秦・漢の二氏をして、内蔵・大蔵の主鐘(かぎつかさ)・蔵部(くらひとべ)と為す縁(ことのもと)なり。

という記事に史実性を認め、ここに見える「蘇我麻智宿頑(まちすくね)」を満致と考えるのであるが、この記事は秦氏蘇我倉氏の家伝に基づいて造作されたものである可能性が高い。「蔵」関係の伝承を語るところから、六、七世紀における蘇我氏の朝廷のクラ管掌(かんしょう)という史実を遡(さかのぼ)らせて、蘇我氏の中でもクラを管掌した蘇我倉氏とその後裔である石川氏によって作られた伝承と考えるべきであろう。蘇我満智という人物自体、石川氏によって創出された人物である可能性が高い (加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』)。

 百済の高官が倭国に亡命して、そのまま倭国で臣姓を賜わり、このように重要な職掌を担ぅというのも、きわめて不自然である

 さらに、蘇我氏が先祖と称する満智の子の韓子(からこ)や、その子(稲目の父)の高麗(こま)という「朝鮮風」の名前も、これらの系譜自体に信が置けないのであるから、根拠とはならない。そのぅぇ、韓子というのは外国人との混血児の通称であり、外国や辺境・動物の名を付けるのは、その子の健康を祈ってのものであった(馬子や蝦夷・入鹿と同様である)。だいたい、百済から渡来したという蘇我氏が高麗(高句麗)という名前を付けるのもおかしなことである(遠山美都男『蘇我氏四代−臣、罪を知らず』)。

 というわけで、蘇我氏渡来人説の根拠は存在せず、現在では完全に否定されている。この説が出された背景には、当時は「騎馬民族征服王朝説」や「三王朝交替説」に象徴されるように、倭国の文化や政治の源流を何でも朝鮮諸国に求めるといった風潮があったものと推 測されるが、これが世間に広く受け入れられた背景となると、さらに根深いものがある。蘇 我氏を歴史の悪者と決めつけたうえで、当時の日本人の潜在意識の中には、悪いこと(特に 天皇への不敬行為)をするのほ外国人であるに違いないといった思い込みがあったのではな いかと思われるのである。

▶︎記紀に見える蘇我氏系譜

 さて、『古事記』や『日本書紀』では、蘇我氏の民族系譜や人物は、どのように語られて いるのであろうか。『日本書紀』には蘇我氏の系譜は見えず、応神三年紀に「石川宿禰(すくね)」等 が百済に遣わされて百済王の無礼を責めたこと、履中(りちゅう)二年紀に「蘇我麻智宿禰(すくね)」等が共に 国事を執ったこと、雄略九年紀に「蘇我韓子(からこ)宿禰(すくね)」が大将として新羅に派遣され、紀大君に 殺されたことが見えるだけである。この後、後に述べる宣化元年紀の稲目の「大臣」任命記 事が現れるのである。

 一方の『古事記』では、蘇我氏の人物は欽明(きんめい)段の 「宗賀(そが)之稲目宿禰大臣」まで見えない。 系譜としては欠史(けっし)八代の一人である孝元段に、「建内(たけしうち)宿禰」の子として、「蘇賀石河宿禰」  が、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向(たかむこ)臣・小治田(おはりだ)臣・桜井臣・岸田臣等の祖」として見える。

 ◉波多八代宿禰(波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部臣の祖)

◉許勢小柄宿禰(許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖)

◉蘇賀石河宿禰(蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等の祖)

◉平群都久宿禰(平群臣・佐和艮臣二馬御桟連等の祖)

◉木角宿禰(木臣・都奴臣・坂本臣の祖)

◉葛城長江曽都毘古(玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣等の祖)

◉若子宿禰(汀野財臣の祖)

 ここで語られている建内宿禰系譜を図示すると、上のようになる。臣姓氏族をまとめた壮大 な擬制的同祖・同族系譜が作られていること、その祖として建内宿爾(武内宿禰とも)」と 七人の子が設定されているのである。五代の天皇に仕えたとする「理想の臣下」としての 「武内宿禰」が、蘇我馬子や中臣鎌足の投影されたものであることは、古くから指摘されて いる (直木孝次郎「巨勢氏祖先伝承の成立過程」、岸俊男「たまきはる内の朝臣」)。

 ここに挙げられている二十七の氏族、そして「蘇賀石河宿禰」を祖とする七つの氏族が、六、七世紀の蘇我氏同族と深く関わるであろうことは、容易に推察できる。また、葛城長江曽都毘古(ながえのそつびこ・『日本書紀』では葛城襲津彦・そつひこ)」が挙げられているにもかかわらず、蘇我氏と深い関わりを持つことが予測できる葛城氏の名がここに登場しないことについても、気になるところである。 

 葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

 元々は葛城長江曽都毘古を共通の始祖として蘇我系・巨勢系(こせ)・波多(羽田)系という、紀ノ川・紀路を媒介として朝鮮半島と交流を行なった勢力を包摂した同族系譜が蘇我氏によって作られ、後に第二段階として紀系・平群系をも組み込んだ建内宿禰糸譜が七世紀後半から末に作られたと考えるのが妥当であろう(加藤謙吉「古代史からみた葛城氏の実能ご)。

▶︎「葛城(かつらぎ)氏」について

 「蘇賀石河宿禰」はもちろん、「蘇我麻智宿禰」や「蘇我韓子(からこ)宿禰」「蘇我高麗(こま)」が実在の人物でないとなると、蘇我氏の実質的な始祖は、蘇我稲目に求めなければならない。

 稲目はどこから来たのか、そしてどのような経緯で、いきなり「大臣(オホマヘツキ)」という重要な職位(ツカサ)に就くことができたのか。

 この疑問を解く鍵は、葛城という集団である記紀(きき・『古事記』と『日本書紀』との総称)によれば、葛城氏」は五世紀には仁徳天白辛自主后磐之媛(いわのひめ・履中・反正・はんぜい・允恭・いんぎょう・天皇の母)・履中天皇妃黒媛(くろひめ・市辺押磐皇子・いちのべのおしわのみこ・の母)・市辺押磐皇子妃夷媛(はえひめ・顕宗・けんぞう・仁賢・にんけん・天皇の母)・雄略天皇妃韓媛(からひめ・清寧・せいねい・天皇の母)を出すなど、大王家の外戚(がいせき)となっていたと伝える。また、始祖として設定されている葛城襲津彦をはじめ、葛城玉田・たまだ・宿禰・葛城円大臣(つぶらのおおおみ)など、高い地位に上った者を輩出し、対朝鮮半島関係(軍事行動と外交交渉)を担っていたという伝承を持っていた。

 

これらがすべて、史実を伝えたものとは考えられないが、葛城地方を地盤とした集団が五世紀代に大きな勢力を持っていたことは、葛城北部の馬見(うまみ)古墳群の築山古墳(四世紀後半、二一〇m)・島の山(しまのやま)古墳(四世紀後半、二〇〇m)・巣山古墳(四世紀後半、二二〇m)・新木山(にきやま)古墳(五世紀初頭、二〇〇m)・川合大塚山古墳(五世紀後半、二一五m)や葛城南部の宮山(みややま)古墳(室大墓・むろのおおばか・古墳、五世紀初頭、二五〇m弱)などの巨大前方後円墳、極楽寺ヒビキ遺跡(五世紀前半)・南郷安田遺跡(なんごうやしだ五世紀前半)・多田桧木本遺跡(おいだひのきもと・五世紀後半)・名柄遺跡(ながら・五世紀後半)などの大規模豪族居館(高殿(たかどの)を伴うものもある)、を伴う南郷(なんごう)遺跡群を造営していたことからも、容易に推測できるところである。