■倭文(しとり)の由来
▶︎シトオリという織布
倭文とは倭文(しず)『旧事記』という織物の名で、正しくは「シズリ」「シドリ」『和訓栞』「シズオリ」『天武記』等と読むべきで、これを「シトオリ」となまって読むのは最も拙い読みかたである。この織物は楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で、その横糸を赤青の原色で染めて乱れ模様に織ったもので、つまり横シマの楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布であるという。
三原郡緑町と三原町(両町とも現在は南あわじ市)の倭文付近は『和名抄』にでている「三原郡倭文郷」の地である。「倭文」という地名は、『和名抄』に次のように見える。
常陸国父慈郡倭文郷
美作国久米郡倭文郷
上野国那波郡倭文郷
淡路国三原郡倭文郷
因播国高草郡委文郷
「倭文」「委文」ともに、「之土利」「之止里」と訓注されているので、「しとり」と読んだのである。三原町倭文委文の「委文」は、現在「いぶん」と読んでいるが、これももとは「しとり」である。
『日本国語大辞典』によれば、「倭文」は「しず」とも「しつ」とも読み、古代の織物の一種で、梶の木・麻などで筋や格子を織り出したものをいう。『大漢和辞典』によれば、「倭文」は「しづ」「しどり」とあり、「しどり」は「しづおり」の約とある。『織物の日本史』によると、「倭文布(しずおり)」は、五世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された一つの倭文部民(しとりべ)によって生産されたものである。
「工芸資料」では「シズ」は筋のことである。今日説く縞(シマ)とは島物の略で、もと南方諸島より渡来した布の意であるとする。
一説にシズとはオモリのことである。これの織機は農家で用いていた「わらむしろ」を作るような原始的な機械で、相当なオモリを必要としたであろうことから、かく呼ぶのであるという。
▶︎御由緒・
倭文集落に西接の山の中腹に鎮座。勧請年月は不明だが、倭文部がその祖神を祀ったものと伝えられる。延喜式神名帳に載る高草郡七座の一つで、中世以降は御祭神の大己貴命(大国主命)が七つの名を持つことから、七躰大明神と称して産土神とされた。
天正年間(1573年~1592年)に玉津城主・武田高信が三尺社を建立、慶長年間(1598年~1615年)に鹿野城主・亀井玆矩が宝刀を奉納、さらに寛永9年(1632年)に藩主・池田光仲が社領一石三斗一升七合を寄進するなど、鳥取城南西(坤)の方位の守護神として崇敬された。
江戸時代は藩主のみでなく庶民の崇敬も広く、明和元年(1764年)の遷宮には大庄屋が郡中を代表して米俵を奉納、文化7年(1810年)には郡奉行が銀百匁を奉納、また、節分祭には広く近郷よりの参詣者が集まるなど、郷間衆庶の信仰は因幡一円におよび昭和初期まで続いた。
明治元年「倭文神社」と改称、同4年に村社に列格、大正4年神饌幣帛料共進神社に指定、大正8年に本殿、幣殿、拝殿、社務所を改築、昭和18年10月1日郷社に昇格する。
(ウィキペディア「倭文神社(鳥取市)」2016年10月4日21:48のshitori-jinjyaによる投稿は、このWebページの作成者によるものです。)
■倭文部(しとりべ)について
この部は、厳密に言うと、五世紀後半の百済系帰化技術民渡来以前のともである。因伯には直接、倭文部に関する文献はなく、式内社に伯耆国川村郡及び久米郡にそれぞれ倭文神社があり、前者は伯耆の一の宮として、後年(天慶3年・940年)には、正三位の神階を授かった大社であった。
因幡にも高草郡(鳥取市倭文-旧気高郡大和村)に倭文神社(当神社)があり、また「和名抄」の郷に「倭文郷」があって、倭文神社のある旧大和村一帯がここに比定されている。どの地域も古墳にも富み、古くから開かれた土地柄で、倭文部という古い織布技術を持った居住地にふさわしい。
倭文の由来をみると、「日本書紀」の「神代」巻に、「倭文神、建葉槌命」、「古語拾遺」には、「倭文の遠祖、天羽槌雄命」などとみえ、倭文部伴造の祖神と考えられる。また、「垂仁紀」39年条異伝に、五十瓊敷皇子(いそまがしきのみこと)が河内国河上宮において作らせた剱一千口を、石上神宮に納め、「楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部(はつかしべ)・玉作部・神刑部(かむおさかべ)・日置部(へぎべ)・太刀佩(はき)部」など、10箇の品部(とものみやつこ)を賜った。この説話は、「綏靖紀」にみえる「倭鍛冶部」の説話と同じく、「倭鍛冶部」や「倭文部」の名は、「韓鍛冶部」や「錦織部」の渡来後につくられ、「品部」の語も品部の制が出来てからつけられたものと考えられる。「倭文部」は新羅系の技術を伝えるもので、百済系の新技術を持つ「呉服部」・「錦織部」に対応するものであろう
「倭文部」は、「しとり」・「しづおり」と訓まれているが、「古語拾遺」には倭文遠祖が「文布(ふみぬの)」を織ったあとから、文様を織り出した布を作る技術者を指すのであろうが、おそらくそれは単なる手織りであって、緯糸に色糸を用いた多色の文様織のことであったろうとしている。(小林行雄著「古代の技術」)
なお、倭文に関する人名・地名・神社名などは極めて広く分布し、大和・山城・河内・伊勢・駿河・甲斐・伊豆・常陸・近江・上野・下野・磐代・磐城・越前・丹波(加佐郡及び与謝郡には式内社倭文神社があり)・但馬(朝来郡に式内社倭文神社あり)・出雲・美作・淡路等にみられる。
「常陸国風土記」久慈郡の条にある「静織の里」に鎮座する「静(しず)神社」も武葉槌命を主祭神としている。
▶︎因幡国(鳥取県東中部)伯耆国(鳥取西中部)の倭文組織について
古代における因幡・伯耆の工業生産は、当時比較的生産の進んだ、また、文化の進んだ地帯にあったかと思われる。
因伯二カ国の養蚕業と農民の絹生産の状況をみると、ここで注意を要することは、これらの絹製品は、調のための生産物であって、一般農民の生活に使用されたものではなかった。高級絹織物の生産地について、「続日本紀」和銅5年(712年)7月壬午の条を見ると、伊勢国をはじめとして21ヵ国があげられている。その国々の中に因幡・伯耆の2ヵ国も含まれている。
因幡・伯耆における制織関係の歴史は古く、かつ、盛んであったことが立証できる。すなわち、錦・綾の生産と関係の深い錦部の所在は、因幡国高庭庄に、「錦部志奈布女」(平安遺文)の人名が発見されることから想像できる。
また、縞織といわれる「倭文布(しづぬの)」についても、古くから倭文組織のあったことが証明されている。倭文組織・倭文部の全国分布表を作成すると、山陰地方と東海地方に集中することは、すでに上条耽之助・井上辰雄らによって、明らかにされたことである。すなわち、「延喜式」に記載されている「倭文神社」は、14社であるが、そのうち、6社は山陰道に、5社は東海道に、2社は東山道に、1社は畿内に、それぞれ分布している。また、「延喜式」に載っていない倭文関係の神社は8社あるが、そのうち7社は東海道にある。
因幡・伯耆に関する倭文神社その他のものをあげると、因幡では、「延喜式」「神名帳」、及び「和名抄」の両資料に、高草郡に「倭文神社」のあったこと、また、「平安遺文」に高庭庄の人として倭文真弘なる人名が記録してある。
因幡国・伯耆国ともに、大体、「倭文神社」の所在する所は海・河川・湖沼に近い高台にあることが共通的である。この現象は、全国的に共通する条件でもある。そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられるであろう。以上の如く、「倭文部」が高草郡高庭庄に、また、川村郡に存在し、高級絹生産にあたったことはほぼ間違いがない。そして、これらの高級生産物は、中央貴族の貴重品であったであろうが、次第に民間への技術普及とともに伝播していったと考えるべきであろう。(上条耽之助「倭文部の研究序説」「日本歴史」、井上辰雄「正税帳の研究」
▶︎倭人と海人族
シズオリの意義はいずれであるにしても、この織布は九州北部より南部朝鮮等をも占拠していた海人族の技巧品であって、古代海人族は支那(中国)と交通しており、そこでは一般にこちらを倭と呼び、民族を倭奴と称して属国の取扱をした。中国で日本のことを記した最初の書物は「前漢地理志」「後漢書東夷伝」であって、これらの書では、日本を「倭」、日本人を「倭人」と呼ぶ。それは日本人が自分のことを「ワレ」と言ったので、日本のことを「ワ」と称えると合点した中国人が「倭」の文字をあてたのだという。
さて、「倭文」の場合、「倭」が古代日本の意、「文」は文布(あやぬの)の略語で、アヤのある布の意、(アヤとは光彩、色彩、模様をいう)で、古記には文布と記してシトリと読ませたのである。そこで倭人の織りなす文布という意味より、倭文の文字をシズオリと読ませたということになる。
▶︎倭文部民
淡路は野島の海人、御原の海人など早くより大和王朝に服属した海人族の発展地で、神話を生んだのもこれらの海人達であるといわれる。それらの中で、倭文布の織工集団、すなわちシトリ部の住んでいた地方を後世倭文郷と称えるようになったことは容易に了解せれる。その首長は宿弥(すくね)という姓を与えられて、大和朝廷より相当に重用されていたらしい。
▶︎倭文神社
また、倭文部のあるところには倭文神社があるのが通例である。倭文織の開祖は俗に倭文明神という系統不明の神とせられ、現に庄田八幡神社に合祀(ごうし)せられている。
倭文神社は、南あわじ市(旧三原町)倭文委文中村にあることから、倭文布を製産して取引した中心地は委文中村であるといわれる。
南あわじ市(旧三原町)倭文委文にある倭文神社
■参考資料
<ひと物語>
「倭文織」を特産品に 古代の織物復元目指す那珂のグループ「手しごと」会長・田中良治さん
旧瓜連町(現・那珂市)などで行われていたとされる古代の織物「倭文織(しづおり)」を復活させようとするグループ「手しごと」に入会し、今年で十二年目に入る。メンバー十三人のうち、たった一人の男性会員だ。
奈良期に編さんされた「常陸国風土記」によると、同町付近では、古くから倭文織を織る人の集落があったとされる。しかし、布は現存しておらず、技術が途絶えている状態で「幻の織物とも言われているんですよ」と紹介する。
グループでは、町の調査結果をもとに、倭文織の復元へ向け活動。縦糸に麻、横糸にコウゾが使われていると考え、一からコウゾの栽培も行っている。「当時により近づけたい」ためだ。
当時は貴族の馬のくらの装飾などに使われていたが、現在はコースターやタペストリーなどに仕上げ、地元の祭りで展示販売をしている。
子どものころ、東京大空襲を経験し、両親と弟と一緒に戦火を逃れた。家族とともに父親の実家がある埼玉県へ疎開。そこで中高時代を過ごし、三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)に入社。東海村に長年勤務し、定年まで原子力の技術者として働いた。
転機は六十五歳の時だ。「研究ばかりして内勤が中心だったため、外に出て動き回る仕事がしたい」と、定年後に測量のパートを始め、県内各地を歩き回った。この時、外で草木染を行っているグループを見て「自分もやりたい」と強く思ったという。その矢先、住んでいた那珂市の文化祭で倭文織の展示発表を目にして一目ぼれ。グループの門戸をたたいた。
これまでに作った作品は、ブックカバーやしおり、御朱印帳などで、日常で使える親しみやすさを意識した。糸一つ一つにこだわりがあり、染色して作品に個性を出すが「糸の色合いで自分がイメージしたものと違う作品ができたりするが、それも面白いんです」と、研究者の顔ものぞかせる。
グループの活動は、作品展示だけではなく、後継者の育成にも力を入れ始めている。地元の瓜連小学校には「倭文織クラブ」があり、そこに出向いて教えている。
いつかは、倭文織を地域の特産品にして発信していくという夢もある。「倭文織は素朴で味があっていい。良い物は長く継承したいじゃないですか」。倭文織への情熱は、冷めない。 (山下葉月)