水俣事件
■「知らんちゅうことは、罪ぞ」
水俣の受難の中にいてやりきれないのは、世界に類例がないといわれる症状に苦しむ人々への、地域住民からの惨酷な仕うちであった。
ここにいちいち書くにしのびないが、人間というものは特定の極限情況に置かれれば、残虐さを発揮する本質を隠しもっているのかとおもう。
たとえば戦争を起すのに兵器産業が動き出す。平和時でも化学産業のあるところ、一種の生物兵器ともいうべき環境汚染物質が氾濫する。企業あるいは行政側は、たとえ人命がそこなわれようとも、当然出てくる負荷として、はじめから計上しているのではないか。兵器産業の目的は生命の微減とひき替えに利益をうるという意味で現代の悪魔である。これが野放しのまま世界の経済をあやつってきた中で、高度成長を押しすすめてきたわが国の拝金思想は民意をあやつって、弱者切り捨てが国民性のようになった時代に生まれたのが水俣病である。公式確認からでも五十年以上経つのに、原因物質の総量や致死量がどのくらい流されたのか、被害者の実態がどうなっているのか、チッソはもちろん国の政策でもはっきりと後づけられなかった。
もとチッソ工員であった山下善寛さんが、生産現場にいた立場から、たれ流された水銀ヘドロが、まだ市内のあちこちに残留し、水俣川河口左岸におびただしく積みあげられている実態を本願の会「コの機関紙二魂うつれ」第27号で発表する段取りになっている。従来いわれてきた百間埋立地とはまた別の水銀埋立地である。海辺に露出したままの有機水銀まじり廃泥を見ていると、チッソや国の責任だけでなくわが市民たちの心の荒廃をうつつに視るようでやりきれない。
水俣川河口左岸の水銀ヘドロ捨場を、「八幡山渣プール」とふつう稱(しょう・名付ける)しているが、チッソが水銀だけでなくカーバイト残溶や他の有害物質を水俣川河口八幡地区の海辺に流しはじめたのは一九四七(昭和二十二)年。
アセチレン発生残溶を利用して海面埋立を行い土地を拡張。形ばかりのコンクリート石垣からあふれつづけて海の色を変えていったのを、対岸の河口から私は幾年眺めたことか。カーバイト残溶は水分を渡すとすぐ固まるのを市民は知っており、毒性を知らされないまま宅地造成泥土として市内のあちこちをも埋めていった。市内も海岸線も産業廃棄物で封じられていても対岸天草島の向うに沈む夕陽は荘麗である。
美しい夕陽のもと、半世紀を経ても患者たちはさらに増え続けている。2004年十月の最高裁判決以後四千人以上が患者として名乗り出た。
これまでに約2300人ほど認定され、95年の「政治決着」では約11000人が一人当り260万円を解決金として受けとった。患者を名乗らず、裁判もしないという条件をつけられて。政治決着とは、言葉からしてうむをいわさぬ表現ではないか。
ここに杉本栄子という患者さんがいる。この人の口から、「水俣病は守護神ばい」という言葉が飛び出した時には、まじまじとその顔をみた。御主人の雄さんともども私たち「本願の会」の柱になって下さっている仲でもある。せっぱつまった声音で、「あのな、わたしどもはな、今、今日、祈らんことには、今夜ば生きられんとばい。人間の罪に対して祈らんば」と打明けられたのはその二、三週間前だった。祈る、ということには命がかかっているのだとわたしも覚(さと)った。
「命とひき替え」というほど毎日を思いつめて生きている人の口から出た「水俣病は守護神」という表現の逆説とその気迫。
すさまじい迫害の体験を言葉少なく語って、「それでもやっぱ茂道が好き」といつも言いそえる時、潮風にうるむようなまなこがきっと苗を見て、涙声になられる。こんなに情の深い人をわたしはほかに見たことはない。
後ろすぎりしてゆく背後を絶たれた者の絶対境で吐かれたどんでん返しの大逆説がここにある。かねてこの人はこうもいう。
「知らんちゅうことは、罪ぞ」
光に貫ぬかれた言葉だと思う。現代の知性には罪の自覚がないことをこの人は見抜いたにちがいない。不自由きわまる体で、あらためて、水俣病とそこに生じる諸現象の一切を、全部ひきうけ直します、と栄子さんは宣言したのだ。皆が放棄した「人間の罪」をも、この病身に背負い直すぞとも言っているのではないか。自分にむかって、迫害する老たちにむかって、世界にむかって仲間たちに対して。
極限的な受難史を経て、この地からは魂の散華をみるような、次の世紀へ渡す手づくりの笛のような、妙音をもった言葉が生み出された。そのうちの一人、今は亡き田上義春さんのことを少しばかり紹介したい。
「二十六じゃったでな、その時。まさか水俣病のなんの思いもかけん。心の底ではなんとか元のようにならんもんかと思い続けてはおった。青年の盛りじやけん。
どん底ちゅうとはやっばりあるもんばい。この病気は意識はあるわけで、アタマも体もバタ狂いよっても、助かりさえすれば銭はどげんかなる、体が先決と思うてはじめ熊大の本院に、のちは藤崎台の分院に行った。とても今のようにじっと座っておれんじゃった。頭のうち割るるごつあるとですけん。ひとから見て、見苦しかろと思うばってん、思いながらバタ狂いますけんな、鈍行の汽車に乗って行ったがその汽車の中のせつなかった。見苦しかより体の方がきつかった」
包丁や刺又(さすまた)を持って家からぶるぶるよろけ出るのを、村人たちは背戸の狭間から爪立ちして眺め、声をひそめていた。
「ありやまあ義春じゃが…こりやあ、野狐(やこ)のついたかもしれんぞ、本人ちゃ思えん」そう囁(ささや)きあった村人たちも次々に発病した。人々が野狐に見立てた妖魔や「外道(げどう)」は至当な比喩だったかもしれない。
初期の劇症で能州大学用患者グループのうち、生きて帰れたのは義春さんと浜元二徳さんしかわたしは知らない。野狐の世界も外道の世界も有機水銀も日本近代の耻(はじ)をも体内に住まわせたまま、この人は哲学の中の牧童という顔つきでわたしの家にやってきた。自家のまわりで育てたトリの卵やヒヨコなどを抱えて。
「水俣病になってから第二の人生のはじまった」とかねがね言っていたが、すらりと言われても、ただごとではなかったろう。
「あの頃の不安ちゅうもんは口じゃいわれん。あんたの主神経は水銀でやられとるけんダメじゃ。残った神経ば総動員して使え、日常の習慣が大切ぞといわれて退院した。看護婦どもは、水俣病患者はバカか気違いか、三つ児のようなもんじゃと思うとるし。みんなよう泣きよったもんで。よっぽどじやなかと、人前では泣きませんばい、大の大人が、なあ。水俣病患者が悪化するのは、この恥ずかしさがすべて先立っとると、おらあ思う。恥というのは、じつさいに辱かしめを受けることを言いますもんな。
発病した二十六歳といえばじゃんじゃん働きよった。村で一番早うに運送を始めてトラックば買うて、車もはしりの頃で、肥料やら米麦に薪、いまはプロパンガスのなんのオート三輪で運ぶが、まだ車ちゅうもんは影もなか頃じゃし、珍らしがられて、嫁御の荷でも引越荷でも引受けて、車はまだ開発途上じゃった。そういうもの一切を引きうけて働きよったのが、三つ児同然になった。モノば言おうとして、アイウエオばいうてみても、舌が言うてくれん。言葉の形がわからん。ほかのところもぜんぶしびれてかなわん。足もな、一尺の階段も上りきらん。まあアタマも冒されとるし、ノイローゼになる。
大体奇病になる前から口の不調法な方じゃったが、言葉が出来んごつなった。意識はちゃんとありよるとに。なさけなかもんな。バカんごたる。やめてしまおうと考えて、黙って眺めとった時代もあった。そしたら、こりやもう、黙っとる世界の方がゆたかじゃし。石のごたる者の心が深かかもしれん。おら、そげん思うごつなってな、山に行くようになって、海に行こうごつなかで、山に行く」
「兎ちゅうやつはぐあいの悪かねえ、おら、飛道具持っとるし」とある時この人は言った。
「人間撃つわけにゃゆかんし。人間の替わりに兎撃つわけでもなか。うち殺してから困るふうで、片っばし、よその家の、鍋が島にやりよる」。とぼけた口調で義春さんは自慢の飛道具を見せ、「これが矛盾のもとばい」というのだった。いわくのある動物性食材を食べた時、土地の言い方で鍋が島にやった、という。人間界を時々離れて山をさすらうこの人にあちこちの鍋が島から注文が相ついだ。兎、いのしし、小狸、等々。「殺生じゃしなあ、気のはれんとばい」。そう呟いていた。見えない修羅を今し方くぐつてきたような、山野の精気を全身にたたえてあらわれることもあった。
「今年の春はどうもこうも御無礼ばっかりして。いやもう、蜂の都合のいろいろあるもんで、つい深入りしてつき合うたもんで」
蜂の都合に合わせて生きていた日々の、至福の気分は、聞いているわたしたちにも伝染した。
「人間も含めて、ムレから始まる生きものの集団の、とくに下等動物ちゅうても人間よりはよっぽど上等に出来とる。あすこじや男はもう雄は役無しのへソで。居候のごつ、ウローウローしとるです。数もちいっとしか産んでもうらえずに、無精卵から産まるっとですもん。それでなして精子があるか訳のわからんですが、メスにくらべれば数にもならんくらいおればよか。ただの種じゃな、うおほほほ。
人間にはなまじ判断力のあるために、チッソのごたるやり口になって間違うわけで、集団には害になるかもしれん。もう為にならん、役せんとなれば草の陰かなんかに這うて行って死ににゆきますし、死なん奴は始末されるし。順々送りのスムースに出来とるです。安楽死の一種で超自然力というたがよかかもしれん。
女王蜂ちゅうても指導権や命令権は一切無かですよ。権力ちゅうとは発生せんように出来とります。ありやまた雄蜂よりは大切にされて長生きしますが、働き蜂がよってたかって管理しますもんな。王乳、ローヤルゼリーちゅうのを飲ませて女王蜂に仕立て上げるわけで、見方によれば奴隷かもしれん、何の労働もせんとですけん。産卵するばっかり。
一国に一女王制といえば君主制のごたるが、あそこは完璧に分業ですばい。産んだ卵はぜんぶ働き蜂が管理して成虫になるまで育児係がついとります。次の女王蜂の卵はここ、働き蜂の卵はここ、雄蜂の卵はここときまっておって、家の内のこと、掃除や玄関番、育児、女王蜂の護衛、いざというときの外敵侵入にもそなえとる。熊ん蜂がギャングで、遠慮なしに食い殺しに来ますから。
ムレというのは全体をあらわしとります。女王蜂というのはムレの中では根源的な存在で、どの蜂もムレの外に出て独立しようとしても生きてゆけんごとなっとります。雄蜂は女王さまと交配して種族繁栄のためにですなあ、それでよかっでっしょ、文句のなんのいうひまもなかですもん。
働き死するちゅうても、あれたちに何のたのしみもなかかちゅうと、人間よりももっと本能的なよろこびを持っとって、上等に出来とるように見ゆる。なんしろ女ごばかりの集団で、することなすこと全部小愛(こや)らしか。誰かに使われとるわけじゃなし、おのずから熱中して一心にやりよります。
産まれたばかりの時は指でちょっとさわっても、潰(つぶ)るっとじやなかろかと思うほどひよわで。かげろうのごたる手肢(てあし)で体を拭いたり翅(はね)を清めるしぐさをして、小愛らしかもんですばい。人間の赤児があくびしよるころは夢んごたるでしょう、あのような風で。自分の口は自分で養いきらんで姉さん蜂たちになめさせてもらう。これがまた一心に育児ばやりますもんな。十二、三日すれば飛べるようになります。その日になると、おない歳で育った者たちがうち揃うて処女飛行をやります。姉さんたちが喜んで、総出で加勢して見物しますもんな。一心に世話した甲斐あって、よう育ったちゅう気持でしょうな。
一匹がまず空を見上げるごつしとって飛び立つと、続いてワァと出て、先に飛んだのから宙に浮かんで、待っとります。このとき巣箱の位置や方角をいっペんに覚ゆるそうで、二十分から三十分。この妹蜂たちだけでなく、育てた方にも「ハレ」の日でしょうけん。春さきのうらうらした日にですね。 それで帰ってくるともう、よかったよかったちゅう風に廻ふるわしてよろこんで、その騒動のによじトぎわうこつ。この日はきっと全巣、祭か祝いか、「憩」の日で、花粉採取も蜜とりもお休みですたい」
全部紹介したいが紙幅がない。どれほどの気力をふりしぼってこれらの言葉が綴られたことか。「石のようなゆたかな心」をも通過して、存在の本質が失われたことをこの人は体験した。それを告げに極上の牧歌をもってあらわれ、たちまち亡くなった。すべての受難者の声だとおもう。