義経滅びの道
■兄弟なればこその軋轢が義経を追い詰める
平氏討伐の令旨が全国に発せられた1180年、華々しく歴史の表舞台へと 登場してきたのが源九郎義経だ。兄頼朝の挙兵を潜伏先の平泉で知った義 経は、勇躍、兄の陣へはせ参じ、同年10月、劇的な対面を果たした。数少 ない血縁として、頼朝も彼を歓迎した。
頼朝軍の一員として合戦に加わった義経は、天賦の才を発揮し、鮮やか な手腕で勝利を手中にしていく。特に一ノ谷の戦いでの奇襲は圧巻で、軍 功著しい義経を、後白河院も検非違使・左衛門少尉に任じたほどだった。 しかし、許可なく勝手に任官したことは頼朝の怒りを買う結果となり、兄 弟間の亀裂を生むこととなってしまう。
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも武功をたてた義経だったが、鎌倉武士た ちと反目することも多く、意気揚々と凱旋した彼を待っていたのは、なん と「勘当」という処置だった。義経には兄頼朝の真意がわからない。急ぎ弁 明のために鎌倉に赴くが、鎌倉入りすら許されず、義経の声が頼朝に届く ことはなかった。
失意のなか、義経は、西国に向かおうと大物浦(尼崎市)から出航するが、 嵐によって船が転覆し、このプランは失敗に終わる。その後、吉野山や伊 勢神宮、比叡山などを転々とするが、頼朝の探索の手は積まない。最後に 義経は、畿内を脱出して旧恩ある平泉へ逃げることを決意。旅の連続とも いえる義経の人生最後の軌跡は、このように、京都〜大物浦〜畿内と迷走 した後、おそらく北陸各地を潜行して平泉へ到着したといわれている。
1187年、わずかな手勢で平泉まで落ちのびた義経を、藤原秀衡は快く迎 え入れてくれた。そればかりでなく、奥州17万騎ともいわれた大軍で頼朝 軍との対決も辞さず、という構えまで見せてくれた。だが、その秀衡が、 あろうことか同年10月、病死してしまう。息子の泰衡に頼朝と戦うだけの 気概はなく、義経引き渡しを迫る頼朝の要求に屈し、1189年、数百の兵を 率いて義経の居館であった衣川館を襲撃。抗戦むなしく、義経は31年とい う短い生涯に幕を閉じた。
■源義経 (1159〜1189)
源義朝と常盤御前の三 男として生まれる。幼名 遮那王丸(のち牛若丸)。 1174年、預けられていた 鞍馬を出奔し、藤原秀衡 を頼って平泉へ。1180年、 頼朝と合流し、平氏追討 の合戦に武功をあげるも、 頼朝と対立し、再び平泉 へ。1189年、衣川舘で自害。
■義経伝説
▶︎悲劇のヒーローは伝説の中で蘇る
劇的な人生を送った義経だが、意外にも史料が少なく、それが人々の想 像力をかきたてた。鞍馬で天狗に剣術指南を受けた話、京の五条大橋で弁 慶を打ち負かした話、安宅の関で弁慶が白紙の勧進帳を読み上げた話など は、すべて伝説の域を出ないのだが、逸話が多いことこそはヒーローの証。 「判官びいき」の言葉を生むほどに、義経を愛する日本人は多い。衣川館で の自害も実は替え玉で、陸奥、蝦夷まで逃げ延びたという「義経不死伝説」 も、今なお根強く語り継がれている。
牛若丸(のちの義経)が幼少時 を過ごした鞍馬寺(写真左、 MAPlO3G3)の仁王門。天狗に 剣術を教わったとの逸話が残 る。牛若丸が住居から奥の院 へ剣術修行に通ったとき、のど の乾きをいやしたといわれる 「息つぎの水」。