ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる[3]。伝記のうちの一つがジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』で、ヴァザーリはミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (Il Divino )」と呼ばれることすらあり[4]、当時の人々からは偉人として畏敬の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特の作風は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。
『システィーナ礼拝堂天井画」
1505年にミケランジェロは、新しく選出されたローマ教皇ユリウス2世にローマへと呼びもどされ、ユリウス2世が死後に納められる霊廟の制作を命じられた。教皇の後援を受けたミケランジェロだったが、ユリウス2世だけではなく後継の歴代教皇から次々に命じられる多くの芸術作品制作に追われ、当初の目的だったユリウス2世の霊廟制作作業を何度も中断せざるを得なかった。このため、最終的にユリウス2世の霊廟の完成までに40年の歳月を要している。司教座聖堂サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ (en:San Pietro in Vincoli) に安置されている、中央にミケランジェロの彫刻『モーゼ像』(en:Moses (Michelangelo)) が配されたこの壮麗な霊廟は、しかしながらミケランジェロ自身には満足のいくものではなかった。
ミケランジェロには別人が始めた計画を引継いだ建築物も多く、それらの中でももっとも有名なのがブラマンテ、ラファエロらの作業を受け継いだローマのサン・ピエトロ大聖堂である。カンピドリオ広場の、建物と空間とで明快に表現された設計もミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂と同時期に手がけたものである。カンピドリオ広場は正方形ではなく菱形で構成されており、このことが見かけ上の遠近感を弱める役割を果たしている。フィレンツェでミケランジェロが建築に関わった有名な建物として、サン・ロレンツォ大聖堂 (en:Basilica of San Lorenzo, Florence) の未完に終わったファサード、同じくサン・ロレンツォ大聖堂付属のメディチ家礼拝堂、ラウレンツィアーナ図書館 (en:Laurentian Library)、要塞などがある。ローマでは、サン・ピエトロ大聖堂、ファルネーゼ宮殿や、サン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーニ教会 (en:San Giovanni dei Fiorentini)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂スフォルツァ家礼拝堂、ポルタ・ピア、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会 (en:Santa Maria degli Angeli e dei Martiri) などがある。