辻井喬(つじいたかし・堤清二)と瀧口修造

■Ⅰ・はじまりのパウル・クレー

 辻井喬(つじいたかし・堤清二)と瀧口修造、美術に向けた二人の詩人のまなぎしが交差した場の一つが、1961年10月、西武百貨店池袋店8階ホールで開催されたパウル・クレーの日本初の本格的な回顧展であった。ベルン美術館クレー・コレクションからの出品によるこの展覧会は、同年の3月、30代後半で西武百貨店の代表取締役に就任した辻井喬が、“実業家、堤清二として百貨店での展覧会事業に乗り出した第一弾であった。

 それに遡る1958年、瀧口修造はベルンでクレーの息子であるフェリックス氏との面会を果たしている。ヴェネチア・ビエンナーレの日本代表として、生涯唯一のヨーロッパ滞在の旅でのことである。瀧ロはフェリックス氏に、日本でのクレー展開催の可能性を訊ねたというが、答えは「実現困難、想像もできない」であったという。クレーの作品は、戦前の瀧口らのテキストを通して日本でも紹介されていた。しかし、当時の日本の美術館をとりまく状況の中では、展覧会としての近代美術のジャンルは未だ浸透していなかった。

 1961年のパウル・クレー展は、堤清二が展覧会事業に乗り出すにあたって近代美術に着目したことと、海外からの美術展事業をいち早く手がけていた読売新聞社の海藤日出男との協働によって実現した。瀧口のフェリックス氏訪問から僅か3年後に開催されたということになる。展覧会開催を記念して出版された画集パウル・クレー(1963年、草月出版部)には、瀧口がテキスト「クレーはここにいる」と作品解説を書き下ろしている。

 後に辻井が「私は長い間クレーの虜になっていた」と述懐しているように、クレーは辻井が愛した作家であり続けるとともに、このクレー展は、後に辻井が実業家・堤清二として西武美術館と軽井沢の高輪美術館(現・セゾン現代美術館)の開館を目指す萌芽となった。

■Ⅱ・二人の詩人、二つの美術館

 詩人・辻井喬は、実業家・堤清二として、1975年に西武百貨店の池袋の店舗12階に西武美術館を開館させる。開館にあたり美術館を“時代精神の根據地”と語り、開館展「日本現代美術の展望」では、荒川修作、加納光於、堂本尚郎、中西夏之、横尾忠則など、同時代の美術を展望した。実業家として開いた商業施設PARCOなどが街と時代をつくり出す中、街の中の美術館”の西武美術館が開館した頃から、辻井は軽井沢に現代美術館を開く構想を始めていたという。また、詩人として、西武百貨店取締役店長に就任した1955年に初の詩集「不確かな朝」を発表、以降、辻井喬の創作は生涯で約120冊にも及んだ。

 辻井が、20才ほど年長の瀧口から初めて手紙を受け取るのは、辻井が送った西武美術館開館の招待状への返信であった。その手紙の本文を辿ることはできないが、辻井のl叶想によると、瀧口が手紙の中で辻井の公職としての美術館開館と詩人としての活動を書き分けていたことに、辻井は感謝の念を覚えたという。

  一方、瀧口は1959年に職業として評論を書くことに障害を覚え、以降、執筆は作家に向けた個人的な言葉となり、そして“書くこと’’と“描くこと’’の原点を模索するデッサンやデカルコマニーの制作、作家たちとのコラボレーションに向かう。その中で1970年代、瀧口の郷里、冨山で美術館設立の準備が進められる。生涯、公職に就くことを拒んだ瀧口は、館長就任の要請を辞起するが、私的なテキスト「美術館計画についての告白的メモ」(1977年)で、美術館を“芸術表現の発生の場”、“或る種の連帯、または予想されなかった結合に達しうるような空間’’と記すも、1977年、1981年の開館を見ずして亡くなった。

 辻井の西武美術館への“時代精神の根據地’’、瀧口が富山に設立される美術館に向けた“芸術表現の発生の場”、いずれも1970年代の後半、何時代の美術・美術館に向かって発せられた言葉であった。

■Ⅲ・詩人たちの憧れ   20世紀の巨匠たち

 瀧口は1920年代半ばから、パリを席巻したシュルレアリスムにいち早く関心を寄せ、この運動の日本での紹介者の一人であった。なかでも、未だ海外からの情報が乏しかった1940年、瀧口が著した「ミロ」は世界で最も早く書かれたミロについての単行本であり、この事は後に瀧口とミロとの間に結ばれる友情に繋がった。また、デュシャンは、瀧口自身が1960年代以降、強く影響を受けた作家である

  1958年のヨーロッパ旅行でのデュシャンとの出会い以降、文通が重ねられ、1960年代前半に瀧口が想像上のオブジェの店の計画を伝えた際には、その店名としてデュシャンから若い頃の偽名「ローズ・セラヴィ」が贈られ、手書きで送られた店名を瀧口は看板に仕立て、書斎に掲げ続けた。

 瀧口がテキストで日本に紹介、あるいは交流を持った20世紀の巨匠たち。辻井は、実業家として展覧会を打ち出した1960年代の西武百貨店催事場1975年に開館させた西武美術館1989年よりセゾン美術館)で、その個展や作品紹介を次々と実現させていった。

 ミロは、その自由な想像の世界に辻井も魅せられた作家であり、1977年に展覧会を開催したマン・レイは、コレクション形成のごく初期から収集に着手した作家であったという。また、1981年に東京高輪にあった高輪美術館を軽井沢に移転現代美術の美術館として開館した高輪美術館(現・セゾン現代美術館)では、開館記念に「マルセル・デュシャン展」を開いた。瀧口と辻井が遠い国の美術に抱いた憧れは、単に20世紀の巨匠であるという理由ではない。画布に切り込みを入れたフォンタナもそうであるように、二人がまなざしを向けたのは、常に革新性を持って未来を見つめ、20世紀の美術を切り拓いていった作家たちであった。

■Ⅳ・共鳴する作家たち 20世紀のアメリカ

 ミロやデュシャンが、20世紀の巨匠として、辻井と瀧口二人の詩人の憧れであったとすれば、1950年代以降の現代美術を牽引したアメリカの、ジャスパー・ジョーンズとサム・フランシスは、二人の詩人が、まさに同時代に発生している美術の目撃者として、親交を結び、共鳴した作家たちである。

 1966年、瀧口は、南画廊での個展のため来日したジャスパー・ジョーンズと会い、構想を進めていた書籍の形式をとったオブジェ<マルセル・デュシャン語録>さのために作品を依頼した。ジャスバーがその作品の構想を伝えるために素早く描いたデッサンが、現在、当館の瀧口修造コレクションーに残されている

 また、アンフォルメルの絵画をアメリカで展開させたサム・フランシスは、1958年のヨーロッパ旅行の折、瀧口がパリのアトリエを訪問し、1964年には協同で詩画集を刊行した。

 1978年に世界巡回の一つとして西武美術館で開かれた「ジャスパー・ジョーンズ展」は、日本で最初の本格的な回顧展であり、辻井白身、1981年の「マルセル・デュシャン展」とともに「美術ばかりでなく我が国の芸術の動きを国際的同時代性の中に置きなおした企画であったと述懐している。それは、単に日本初の回顧展という意味ではなく、西欧に比して大きな遅れをとった前衛的な美術の受容が、日本の社会において漸く開かれたという意味だったのではないだろうか。

 標的や数字といった記号的な対象を禁欲的な筆触で描いたジャスバー・ジョーンズに対し、大画面のなかを色彩が大らかに拡がるサム・フランシスの作品には、その自由さに魅せられたのだろう。辻井は、1988年に軽井沢の高輪美術館で開いたサム・フランシス展の図録に自らテキストを寄せている。この展覧会は、瀧口の想いを継ぐ当館でも開催され、サム・フランシス自身が双方の美術館を訪れている。

■Ⅴ・共鳴する作家たち・・・日本の現代美術

 生涯にわたり、先鋭的な芸術表現を志す者たちを無条件に擁護してきた瀧口。その交流の一端は、当館の「瀧口修造コレクション」の中にある、瀧口から贈られた言葉との交換として、作家たちから贈られた作品やオブジェの数々に見ることができる。その中には、西武美術館の開館展【日本現代美術の展望展」を契機に、西武美術館や高輪美術館で個展を開催し、辻井が親交を結んだ荒川修作、加納光於、堂本尚郎、中西夏之、横尾忠則といった、同時代の日本の作家たちの名前を見ることができる。

 

 そして、彼らの制作活動の“現在”を映し出した展覧会出品作の一部は、現在、セゾン現代美術館のコレクションに加わっている。後に辻井は「氏を取り巻く若い仲間の多くは、私の友人でもあったが、おそらく私は瀧ロさんの真偽を見分ける鋭い目に恐れをなしていたのではないかと、今になって振り返られる」と述懐しているように、作家たちを介して二人の詩人が直接的に交流を持ったことは殆どなかったようである。しかし、二人は静かに通じていたのであろう。辻井が創設した西武劇場での上方巽の舞踏公演、古楽監督に武満徹を迎えた「ミュージック・トゥデイ」で現代音楽の紹介に取り組んだことなど、辻井と瀧口が同時代の前衛的な表現への惜しみない支援、そして共感を抱いたジャンルや創造者の多くは重なり合っている。1979年、西武美術館で開催された「荒川修作意味のメカニズム」展、瀧口がこの展覧会のために手掛けた翻訳は、清巨口の最後の仕事となったこ辻井と瀧口、二人の詩人が生きた20世紀の美術に向けたまなぎし。辻井と瀧口のまなぎしが、美術館という場で交差した最初の場が1961年のパウル・クレー展であったとすれば、最後の交差がこの「荒川修作意味のメカニズム」展であったのかもしれない