ミューズのつかさどるところ

■序・・・ミューズのつかさどるところ

 古来、諸芸術はお互いに競い合い、また補い合ってきました。神話や歴史上の出来事や人間の普遍的な感情は詠じられ、伴奏付きで歌われ、装飾文様や壁画に表現されてきました。また、人々が集まり、重要な儀式や祝祭を行う場である集会所や神殿や劇場や教会では、諸芸術が集合して総合的な効果をもたらしてきたことはいうまでもありません。古代ギリシャでは、パルナッソス山でアポロンの主宰する知の女神ミューズ(古代ギリシャ語でムーサ)たちが音楽・詩作・言語活動一般を司るとされ、古典期を経てローマ時代の後期には9人のミューズそれぞれが司る学芸の分野が定められていまももともとミューズを祀る神殿であったムセイオンは文芸・学問を研究する学堂に転じ、ルネサンス以降に西洋に博物館が成立した際に、ムセイオンの名が復活、現代のミュージアムへと継承されていきます。古代のミューズの司る分野にほ、美術は含まれていませんでしたが、ミュージアムには絵画や彫刻が集められ、ルネサンス期以降に盛んであった比較芸術論争では詩と美術と音楽の特性が比べられ、詩と美術の優劣が盛んに論争されるようになっています。

 文学、音楽、美術は、各分野が確立したルネサンス期以降、それぞれの分野で発展し、社会の変化を写し出すという点でいずれかの分野がより早く、他のジャンルは遅れて影響を示すこともみられました。中世以来教会が中心となってきた音楽の分野では、古典的な形式が確立されたのが18世紀と、美術や文学と比べて比較的遅かったといえつまり、文学と美術の分野では、ルネサンスに古代ギリシャ・ローマ時代の遺産の発見があり、17世紀に古典主義の成立をみたのに対し、音楽は新古典主義と、ロマン主義も重なり合う時代である18世紀の後半にウィーン古典派の登場をみていまもこのような、各ジャンルに同様な様式の変遷をみるという考え方は19世紀に成立しており、互いの影響関係もこの時代にいっそう注目されるようになっています。

 ロマン主義においてはジャンルの横断が盛んとなりました。18世紀後半より興った文学や音楽のロマン主義運動のなか、ドイツを中心として人間の感情を深く揺り動かす音楽のはたらきが見出され感情や個性を重視する音楽が生まます初期のロマン主義の理論を確立したドイツの文学者たちが特に音楽を論じたことがここに関与しています。また器楽の発展から、歌詞により語るのではなく、多彩な音色を持つ管弦楽曲等によって感情や情景、さらには理念を表現する試みが登場します。こうして音楽を文学的に解釈することが盛んとなり、また、19世紀半ばには音色や音型によってモチーフを描写する標題音楽も登場し、美術と音楽の領域は近づいていきました。

 美術の分野ではロマン主義に続いて写実主義があらわれますが、これを追求した結果、現実世界から受け取る感覚を光の分析を通じてとらえようとする印象主義、さらに色や形の自立性を探究するポスト印象派が導かれます。他方、かたちに表せない観念や感覚の喚起を目指す象徴主義が登場し、音楽にも象徴主義の影響がみられま一丸このふたつの流れから、音楽の純粋象徴性や理論をモデルに、非対象の絵画、抽象絵画という新しい美術が生みだざれてゆくのです。

ドビッシーの例 「野生動物の午後にプレリュードの冒頭にフルートの主題をテーマ

▶︎I・一つの主題と二つの世界

 神話や宗教の教え、そして物語は、いにしえより詩や散文の形に著され、また音楽や美術に表現されてきました。特に宗教においてはその多くが文字の読めない大衆に向けて音楽や美術の力を借りて布教が行われてきました。

 

 ここでは、ロマン主義以来の美術と音楽の接近を背景とした、共通する文学的主題をもつ美術と音楽の作品より、ゲーテの『ファウスト』、3世紀の皇帝デイアクレティアヌスに仕えた軍人であった聖セバスティアメスの殉教の物語、1世紀のギリシャで成立した物語『ダフニスとクロエ』にちなんだ美術と音楽をご紹介

 ゲーテの著作は18世紀の古典主義からロマン主義への展開に絶大な影響を与えました。『ファウスト』はまさに時代を象徴する形でリストやベルリオーズ、そしてシューマンにとっても作曲の源泉となっています。そしてロマン主義の申し子といえるドラクロワはこの物語の展開を追う18枚の挿絵を描いています(上図左右)。死と愛、欲望とモラルの間の葛藤を繰り広げる物語は、楽曲においては標題音楽的な性格付けのある曲想を引き出し、ドラクロワは演劇的な場面構成によって応えています。

 

 ローマ帝国がキリスト教化する時代を背景とする聖セバスティアメスの殉教の主題は、ルネサンス期のマンテーニヤの作品など絵画化の長い伝統をもっていますが、19世紀後半にはギュスターヴ・モローなど象徴主義の画家が取り上げています。モローによる《聖セバスティアヌスと天使》は1876年にサロンに出品され、《救済される聖セバスティアヌス》(1885頃)につながっています。20世紀に入ると1911年にダヌンツイオがダンスと演劇からなる幕の神秘劇を書き、歌劇《ベレアスとメリザンド》(1902年初演)の斬新な楽曲で注目されていたドビュッシーに音楽を依頼しています。パリのシャトレ座での上演は3時間に及びました。

 オデイロン・ルドンはドビュッシーを魅了した画家の一人であり、音楽を愛好した彼はドビュッシーが1893年に初演した《祝福された乙女》を賞賛して、以後両名は互いに親しく交流しています。ルドンの《聖セバスティアヌス》(1910−15年)は、まさに同主題の楽曲と同じ時期の作品です。ルドンが舞台上演を見た可能性も考えられまたこのテーマをめぐるモロー、ルドン、そして文学性の濃いドビュッシーによるそれぞれの表現は、象徴主義という共通点で、つながっているのです。

 ラヴェルがバレエ・リュスのために作曲した1912年初演の《ダフニスとクロエ》は、管弦楽版の演奏によって知られています。主要登場人物をあらわす主題、効果を高める伴奏なしの合唱、情景を見事に描写する音の動き、遥か古代を思わせる独特の音階、3拍子や7拍子の舞踏的なリズムなどを盛り込んだ緻密で斬新な構成は、ラヴェル独特のイメージの喚起力を遺憾なく発揮しています。

 シャガールが42枚の挿図を描いた豪華な挿絵本が出版されたのは1961年と半世紀後ですが、シャガールは初演の舞台デザインを手がけたレオン・バクストに学び、1958年から59年にかけてのパリ・オペラ座とブリュッセルでの《ダフニスとクロエ》上演の舞台と衣裳を担当しています。舞台デザインと版画制作に先立ってシャガールはギリシャに取材し、地中海の特別な青色と強烈な光に照らされた純粋な色を用いて、普遍的な恋の成就までの試練の数々を描いています。技巧を凝らし、エネルギッシュな異国趣味にあふれるラヴェルの楽曲に対し、シャガールは鮮やかな色彩と素朴で自然な表現により普遍的な人間の営みを歌っています。

 同じ主題をめぐって、時代を共有して同質の世界に達する例、あるいは、それぞれに固有の表現が対照的に際立つ例、物語の解釈が時代と共に変わり、引き出される内容が異なってくる例など、美術と音楽の出会いは、時代の背景を写し出す場となっているようです。