みちのくの仏像

■祀られた仏たち

大矢邦宣

 みちのくは、魅力的な平安仏の一大宝庫として、仏像ファンにつとに有名である。先ず都の仏像にもひけを取らない名品の一群がある。重厚にして躍動感のあるオーフを発する福島喜多方・勝常寺の薬師如来坐像、厳めしい信頼感に溢れ、我が国最古の墨書年号を持つ岩手奥六郡の盟主・黒石寺薬師如来坐像、重量感たっぷりの美男仏、宮城栗原・杉薬師双埜寸の薬師如来坐像、わずか十四センチほどの鏡面ながら仏の宏大無辺の世界を表現する傑作・秋田大仙市の水神社の線刻千手観音立像鏡像、さらには明快な鎌倉仏を先取りする山形・山寺立石寺秘仏本尊薬師如来坐像、荘厳と一体となって光溢れる極楽浄土を現出した岩手・中尊寺金色堂の諸仏等々、枚挙に暇がない。

 だが、都風の仏像ばかりが心を惹きつけるのではない。仏像ファンを魅了してやまないのは、いわゆる「みちのくらしさ」溢れる仏像である。それほ早くも平安前期、福島大蔵寺の諸像に萌芽が現われ、平安中期には岩手天台寺の諸像に典型的に現れて大きな流れとなり、都文化を大々的に導入した平安後期から末期の平泉の時代でさえも、その陰では一木仏の伝統は脈々と伝わり続け、江戸時代の神仏像にまで、いやその精神は現代もなお連続している。

 では、その「みちのくらしさ」とは何だろうか。次の言葉が浮かんでくる。〝一木造、素木仕上げ″、〝素朴で、大らか″。さらに技法にまで及ぶと、〝荒彫り・鉈彫り〟というキーワードが浮かぶ。その一方では、〝滑らか仕上げ″の仏も目立つ。 また、これら四つ以外では、〝力、としての仏″という意識が強いことも大きな特徴だ。 このうち先に挙げた四つは、表現技法と様式に関わる特色である。そして〝力、としての仏″という意味合いが強いという:とは信仰的要素を示しているが、これこそ、「みちのくらしさ」の根本をなすもので、前の四つはその具体的な発現である。むろん、ここに掲げた特色は、多かれ少なかれ、日本全国に見られるが、特にみちのくに色濃く表れ、みちのくの仏像を神秘的、魅力的なものにし、より豊穣にしている。

 では、この二つの流れはどのようにしてみちのくに現れたのであろうか。「みちのく」の語源は、「道奥国」、都から東に延びる東山道の奥の国という意味である。「道」は「陸」に置き換えられ「陸奥国」となったが、読みも意味も「みちのおく、みちのく」で変わらない。「みちのく」には最初から最果ての地という意味とイメージがこめられていた。古代日本の最北端に位置し、都から見れば僻遠寒冷の地、まさに文化果つる地であった。それ故、住民は禽獣に等しい化外の民として、モミシ(蝦夷)身分として差別され、蔑視と恐れの眼が向けられた。

 しかし、みちのくには都になくてはならない特産物があった。第一に砂金である。金は寺院・仏像の荘厳に欠かせない。そして、馬。みちのくの駿馬は儀式用としても、武家の実用としても珍重された。

 また、北海からもたらされるアザラシの皮は濡れず凍らず、武具製作等には欠かせない。広大な地域からの収入も魅力である。未知の国が、魅力溢れる魅知の国にもなり(実際、陸奥国ほ「みちのくに」とも読まれた)、中央政府による内国化が進められ、しばしば侵略(蝦夷征討・征夷)の対象ともなった。仏教は、七世紀後半からみちのく教化の国策としてもたらされ、寺院は都文化の象徴として建立された。平安時代に入ると宗教者による布教も活発になり、都に対する憧れと違和感、したたかに温存する以来の宗教感情等があいまって、多くの魅力的な仏像が生まれることになる。

 みちのくは、豊かな自然、きれいな水と空気、「実地の国」のプラスイメージに好転しっつあった。しかしながら、二〇一一年三月十一目の三陸大津波による壊滅的な被害と、原発事故による放射能汚染により大きく損なわれた。これまでもみちのくは歴史上何度も災害に襲われ、壊滅的な被害を受けながらも、そのつど、立ち直ってきた。本書には津波と向き合った仏たちの特集も設けている。古来の信仰文化が地域の人々を結び復興の拠りどころとして大きな役割を果たしてきたからである。

 みちのくとは何だろう。みちのくらしさとは何だろう。改めて問い直し、みちのくへの関心をより深くしていただけるならば幸いである。関心を持ち続けること、それが復興につながる「絆」だからである。

(おおやくにのり・平泉文化遺産センター館長)■仏都・会津を代表する古刹の仏たち

 勝常寺のある湯川村は、会津盆地のほぼ中央に位置し、遠く磐梯山を望むことができる。盆地を南北に流れる阿賀川と猪苗代湖より発する日橋川(にっぱしがわ)の合流する地点より、やや南に勝常寺は建つ。

 文化六年(一八〇九)に会津藩によって編纂された『新編会津風土記』によれば、大同年間(八〇六〜一〇)に空海が‥の地に来て、自ら薬師の像を刻み、盆地の東西南北と中央の五箇所に安置したという。中央が勝常寺薬師堂の薬師如来像・室町時代・重要文化財 (下図右) であった。ここでは空海の開基となっているが、明治十二年(1879)の社寺明細帳などでは薬師堂ほ徳一の創立と伝えており、現在では慧日寺とともに徳一が九世紀初期に開いたと考えられている。

 

 勝常寺についての古い記録は、ほとんどない。ようやく中世に遡る文書が散見される程度である。大永年間(1522〜28)には、会津の領主であった蘆名(あしな)氏より寺領の寄進などがあったことが知られる。(若林)

    

■東北の仏像と仏教の歴史(福島)

▶︎会津、中通り、浜通り三地域で発展した福島の仏教

若林繁

 福島県域への仏教の流入は、七世紀後半から確認される。白河市の借宿(かりやど)廃寺跡からは、七世紀の寺院跡からよくみつかる塼仏(せんぶつ・粘土を型押ししてつくつた仏像)が出土している。七世紀後半には県内各地で寺院や仏堂が建立され、仏像が安置されたことが知られるのであるが、この時代から奈良時代の遺品は塼仏などを除いて皆無に等しい。福島県域での本格的な造像の開始は、平安時代に入ってからである。

■塼仏(せんぶつ)は、かつて中国の北魏から唐代に発展し、日本には7世紀に伝来し、発達したレリーフ形式の仏像。

 九世紀初期、会津で活動した僧に法相宗の徳一がいる。徳一の会津で活動していた頃の遺品は、湯川村の勝常寺に集中している。勝常寺の諸像は、徳一の構想、指導のもとにこの地でつくられたものと考えられるのである。会津の徳一の活動時期.よりやや遅れて、中通り地方にも法相宗の教化が及んでいる。『類聚国史(るいじゅうこくし)』仏道七によれば、しのぶぐん天長七年(830)、信夫群(現福島市を中心とした地域)に菩提寺という寺を山階寺(やまなし)の僧智興(ちこう)が建立したとある。山階寺は 興福寺(こうふくじ)のことで、徳一の跡を継いで、中通り地方に法相宗の布教が伸びていったことがわかる。

 

 この頃のだいぞうじ中通り地方の遺品は、福島市の大蔵寺(だいぞうじ)に伝えられている。浜通り地方の茨城県との県境には平安時代初期、蝦夷(えみし)の取締などの警備機能を保っていた菊多の関(勿来関の古名)があった。この地、すなわちいわき市勿来町酒井出蔵の地に出蔵寺(いでぐらじ)がある。同寺に伝えられる明王形立像は十世紀の造立と考えられ、関を守護する役割を担ってこの地で道立されたものと考えられる。

  

 平安時代後期になると、造像活動はより広まりをみせる。この時代は極楽往生を願う浄土教の流布とともに、和様彫刻が発展し、穏やかで平明な作風の像が多くつくられた。このような作風を完成させたのが定朝(じょうちょう)で、定朝様と呼ばれる。いわき市白水阿弥陀堂諸像会津美里町法用寺の金剛力士立像(上図3点)は、その典型である。定朝様の地方への定着を示す遺品が、会津坂下町定徳寺(じょうとくじ)薬師如来坐像喜多方市泉福寺の大日如来坐像福島市大蔵寺の諸像で、これらはいずれも一木造である。 

 文治五年(1189)に源頼朝は、岩手県の平泉に本拠を置いていた奥州藤原氏を攻める。この合戦で勝った頼朝は、軍功のあった関東武士たちに恩賞として福島各地の土地を与えた。ここに福島の中世が始まる。鎌倉時代には法然の浄土宗など、新しい宗派が開かれる。浄土宗の福島県域への早い頃の流入は、喜多方市の願成寺(がんじょうじ)にみられる。当寺の開基は隆寛とされる。

 隆寛は浄土宗多念義派(たねんぎは)の祖で、嘉禄三年(1227)に奥州に配流となるが、隆寛自身は相模国飯山に保護され、代りに門弟の実成(じつじょう)が配所につかわされる。この配流先が喜多方市の願成寺の地であった。願成寺には、鎌倉時代初期の阿弥陀如来及び観音・勢至菩薩坐像(せいしぼさつぞう)が伝えられている。おそらくこの地に下向した実成が、三尊の造立に関わったむのであろう。両脇侍がひざまずくなど、廊風のすがたにつくられている。この像の造立には、この地の領主層の援助があったものと推察される。只見町成法寺(じょうほうじ)の聖観音菩薩坐像、いわき市保福寺(ほふくじ)の薬師如来坐像、同じく長福寺の地蔵菩薩坐像などの諸像は、いずれも洗練された写実的な造形で、中央仏師の作で、当地の大領主層の造像を考えられる。

 一方、前代以来の在地の技法、造形を踏襲している作例も多く伝えられている。喜多方市勝福寺の不動明王・昆沙門天立像は、銘記により弘安二年(1279)の造立とわかる。一木造の、古朴な造形に特徴がある。南相馬市泉観音堂の十一面観音立像にも像内に弘安六年(1283)の銘記がある。この像の構造は、頭体通して前後に二材を矧ぎ合わせている。もっとも単純な寄木造の技法である。これらの像は在地の仏師によって道立されたものと考えられ、在地領主層の造像とみなされる。以後、南北朝から室町時代にかけて、造像の主体は在地の中小領主層へと移っていく。仏像自体は小型化していくが、造像活動は一層活発となつていく

(わかばやししげる・東京家政大学教授)

■会津五薬師の伝承

慧日寺(磐梯町)の金堂(写真奥)・中門(写真手前)。平成20年に復元 写真提供=磐梯山慧日寺資料館

 文化六年(1809)に編纂された『新編会津風土記』勝常寺薬師堂の条に、薬師如来は空海作とある。すなわち大同年中(806〜10)に空海が会津の地に来て、自ら薬師像を刻み、勝地を選んで五箇所に安置したという。東に本寺村(もとでらむら・慧日寺現・磐梯町)、に漆村(北山薬師又は峯の薬師とされる大正寺 現・北塩原村)、堤沢村(つつみざわむら・慈光寺 現・会津若松市門田町)、西に宇内村(上宇内薬師堂 調合寺(ちょうごうじ) 現・会津坂下町)で、中央勝常寺薬師堂(現・湯川村)である。

 寛文十二年(1672)成立の『会津旧事雑考』の大同二年の条には、空海が磐梯山慧日寺を建て、その後に鎮護のために五薬師を五万に安置したとある。すなわち東に慧日寺、西に日光寺、北に大正寺、南に火玉堂寺、中央に勝常寺となっている。会津の領主である蘆名盛氏(あしなもりうじ)が築いた向羽黒山城の成立について述べた巌館銘(がんかんめい)』は、勝常寺第十三世覚成が永禄十一年(1568)に記したもので、この中で五薬師への言及がある。空海が五薬師を造立安置したということは、他書と同じである。ここでは五箇寺東方の磐梯山慧日寺、南方の火玉堂寺、西方の日光寺、北方の漆、中央の勝常寺としている。これは『会津旧事雑記』の記載と同じで、『新編会津風土記』の五薬師とは多少異なる。『新編会津風土記』では西に宇内村、南に堤沢村となつているが、『巌館銘』などでは西は日光寺で、南は火玉堂寺である。

 古くは『新編会津風土記』とは異なる薬師が、二箇所入っていることがわかる。さらに会津五薬師の記録では、現状では『巌館銘』がもっとも古く、中世の末頃には会津五薬師が成立していたと考えられる。諸書では五薬師を大同年中の創建としているが、これは伝承に過ぎないであろう。しかし『新編会津風土記』の五薬師のうち、上宇内薬師堂像は十世紀、勝常寺像九世紀初期の造立と考えられ、慧日寺は寺の跡を残すのみであるが、発掘調査などから九世紀の創建とみられている。平安時代前期に遡る遺品や遺跡が、五薬師中三件もある。会津五薬師を単なる伝承と片付けることはできないであろう。会津の仏教、仏像の歴史の深さを物語るものといえるであろう。さらに鎮護のために中央と東西南北の四方に安置したということは、会津盆地の広大さ、一国としての独立性を反映しているものと考えられ、このような土地柄が中世末期に五薬師を成立させたともいえる。(若林)

■会津での布教につとめた徳一上人の足跡

 元亨二年(一三二二)、臨済宗の僧・虎関師錬(こかんしれん)撰の『元亨釈書(げんきょうしゃくしょ)』 などの徳一の伝記によれば、徳一ははじめ法相宗を興福寺の修円に学び、後には東大寺に住し、もっぱら法相宗を担い、天台宗を開いた最澄を論破したという。法相宗の徒は、これを称賛した。しかし奈良の都の僧侶の堕落を憎み、ついに東国への修行の旅に出て、会津に住むことになる。

 最澄との間で争われた三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)は五年余の論争の後、弘仁十二年(821)に一応の終結をみたといわれる。最澄はこの中で多くの著述をあらわし、『守護国界章』のはじめには、「奥州曾津牒溢和上」とあり、徳一が当時会津に任し論争していたことが知られる。また徳一の会津での活動や修行の内容については、真言宗を開いた空海が徳一に宛てた手紙によってうかがえる。この手紙は、『高野雑筆集』に収められているもので、弘仁六年(815)に会津にいる徳一に、密教経論の書写とそれを広めることへの助力を願ったものである。この中で空海は徳一を菩薩と称し、仏道修行のため都を離れ東国に向かい、徳一の大衆教化は到らないところはないといっている。弘仁六年の頃には、徳一の大衆教化も広く会津一円に及んでいたことが知られる。

 平安時代後期に成立した 『今昔物語集』の、陸奥国の女人が地蔵の助けによってよみがえったという話があるが、その冒頭に、〝慧日寺は徳一菩薩の建てた寺〟とある。慧日寺は磐梯山の峰続きの古城峰(こじょうがみね)の麓に位置し、現在では跡のみをとどめているが、最近、金堂と中門が復元された(上図) 寛治三年(1089)の編纂という『弘法大師行状集記』(下図)は弘法大師の伝記であるが、ここでは慧日寺は空海が建て、徳一に後を託したとある。

 寛治の頃には慧日寺は真言宗化してしまったものであろう。慧日寺の縁起では、弘法大師の創建としている。

 徳一が会津で活動していた頃、九世紀初期の遺品は現在、勝常寺に伝えられている。薬師堂の本尊である薬師如来及び日光・月光菩薩立像、四天王立像の諸像は、勝常寺創建期の安置仏と考えられる。中尊薬師如来坐像の堂々とした量感、両脇侍像の伸びのある造形は、都に匹敵する完成されたすがたを示す。これらの像の造立は、徳一の指導がなければ成し遂げることはできなかったものと思われる。徳一は奈良の地を離れ、東国、会津の地に仏道修行にふさわしい清浄な地を求めた。会津こそ、徳一にとっては理想の仏の都であったのであろう。(若林)

■仏像・建築・庭園・極楽を完存する白水阿弥陀堂

▶︎願成寺(白水阿弥陀堂)がんじょうじ(しらみずあみだどう) (福島県いわき市) 

■(一九〇三)一月の暴風雨により、堂は倒壊した。‥のとき内陣に安置されがん〉しょついした諸像は別当願成寺に移されており、難を逃れた。同三十七年に堂は復興される。その後庭園や弛も整備され、往時のすがたを取り戻している。(若林)

 福島県で唯一の国宝建造物で、平安時代の建立である。桁行三間、梁間三間のほうざよう宝形造で、屋根はとち葺とする。側まわりの板扉や板壁の位置などは、中尊寺金色堂と同様といわれる。内陣の後ろ寄りに須弥壇(しゅみだん・仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと)を構え、正面に阿弥陀三尊、前方に二天像を安置する。内、外陣とも折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)としているが、外陣は当初化粧屋根裏であった。側の板壁内面、母屋の柱、天井などに仏像や装飾文様が描かれていたが、今では剥落する。

■天立像平安時代後期 像高98.5〜103.5cm一成寺(白水阿弥陀堂)重要文化財珂弥陀三尊の前方左右に立つ。向かって右が持国天、司左が多聞天である。両像とも髪束の垂れた髪を結い、宅広の天冠台を戴き、鎧をつける。持国天は左手を振り上げ、右手を腰にあてる。多聞天はその反対の姿勢をとる。激しい怒りと動きをあらわした姿で、そのたカかやや複雑な寄木造の構造を示す。両像の量感を減らした体躯は軽快で、激しい動きをあらわしているにもかかわらず、全体の調和はよく保たれている。(若林)写真提供=願成寺多聞天130持国天阿弥陀堂(国宝)。中尊寺金色堂、高蔵寺阿弥陀堂とともに東北三大阿弥陀堂とされている。写真提供=願成寺

 縁起によれば永暦元年(1160)に、いわきの豪族岩城則道(いわきのりみち)の後室徳尼(とくに)が亡夫の冥福を祈って、故郷平泉の金色堂に模して創建したと伝える。阿弥陀堂は明治維新の後、荒廃が進み、さらに明治三十六年(1903)1月の暴風雨により、堂は倒壊した。このとき内陣に安置された諸像は、別当願成寺に移されており難を逃れた。同37年に堂は復興される。その後庭園や池も整備され、往時の姿を取り戻している。