日本の漆芸

■ 日本の漆芸

 日本は遥か天空から見ると大陸に寄り添っている島国である。私たちがいつも見ている日本は北方列島が連なる北海道を上に、右に太平洋そして左に日本海のある地図だが、大陸を下にして太平洋を上にすると全く違う世界感が現れてくる。ナウマン象、ヘラ鹿などの大きな動物は陸続きだったときに太陽の昇る方向に自ら歩いて移動してきたことがわかる。

 日本と大陸が一つであったから大きな動物が渡ってきたものであり、その最も新しい骨の遺物を探ると、12500年前に大陸と列島は海によって閉ざされたと考えられるのである。

 これは氷河期の時代の地球上にある水が氷となり陸地にへばりついているために海面が低く、陸地面積が広かった時代から、地球が温かくなり海面が上昇し、陸地面積が小さくなって起きたことである。その中に起きた漆の文化について考察をしていきたい。

 日本は漆芸の国と呼ばれることがある、これは中国が磁器の国と呼ばれることと対をなしている。

 漆芸は原材料として漆の木から採取される樹液を使って表現した芸術と定義すると、世界の中で、わずかな国しかそれを作り出していない。

 中国、朝鮮半島、日本、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、ブータンなどである。しかしあらゆる自然塗料、化学塗料で表現された芸術は、広く世界中に存在する。

 日本の漆芸はいつ始まり、そしてどこに特徴があるのだろうか。歴史と技術の観点から縄文時代の漆芸を見ながら、次世代への発展を考察する。

■ 1.縄文時代 日本独自の漆芸

 9000年を超える漆製品が北海道函館市から出土するなど日本の漆芸は、長い歴史を持つ。日本人は漆の樹液を木から採取し、精製をして、顔料を入れた色漆を作るなど、今の日本の漆芸技法と変わらない技法を獲得していた。これらは各時代の多くの、遺物が証明している。

鳥浜貝塚出土のウルシのくし

 この時代の日本の漆芸は中国大陸や朝鮮半島の漆芸と関係は薄く、独自な技法で発展を遂げていたことがわかる。

 漆の樹液が温度と湿度で固化することを山の中で発見した縄文人は、有益な素材として、木の管理をし、採取、使用していたことがわかる。遺物は芸術作品としての価値を持つさまざまなものが出土する。

 縄文人の遺跡を見ると、漆は実にさまざまな使われ方をしていることがわかる。科学技術が発達した今も、自然素材である漆の表現技術、技法はその当時と全く変わらないことに驚かされる。漆を使って表現をする人は、今も、漆が湿度と温度で固化するメカニズムを操りながら、作品を作っている

 漆という素材を分類すると以下の四つになる。今私たちが先輩から学び、後輩に指導している技法が縄文時代に原点があることは、感慨深いことである。

◉漆液を接着剤として使う  縄文人は割れた土器を漆の接着力をもって修復していた

縄文人は木の面に漆の接着力をもって貝殻を貼っていた  

縄文人は石の面に漆の接着力をもって真珠を貼っていた  

縄文人は石鉄と失柄を漆の接着力をもって接合していた

◉漆液を造形素材として使う 縄文人は造形的な櫛を木の粉と漆を混ぜて作っていた

竹を編んだり、繊維を織ったりした上に漆と土や木粉を混ぜたもので造形し、塗り固めていた

◉漆液を塗料素材として使う

縄文人は木製の器の内外に朱色と黒色の漆を塗っていた

縄文人は木製の器の内外に、朱色と黒色の漆を塗っていた

縄文人は繊維で造形したものに、朱色と黒色の漆を塗っていた

◉漆液を絵画素材として使う  

縄文人は漆の面に朱色と黒色の漆で渦巻きなどの模様を描いていた  

宋色と黒色で塗り分け、朱色の上に黒漆で細い線を描いていた

 漆は木から採取したままでは、発色がうまくいかないために、精製という工程を経なければならない。最初はナヤシ工程という攪拌作業をし、成分を均一にする。その後は熱を加えて攪拌作業をするクロメ工程を行う。生漆の中の水分を五パーセント位にするためである。

“漆黒 / jet black” 堤淺吉漆店 from Naoki MIYASHITA/ Terminal81 Film on Vimeo.

▶︎産地から届けられた漆桶からどのように漆が精製されるのか、弊社の工房の写真とともにご紹介。

■受け継がれる伝統の漆精製技術

■従来製法・鉢クロメ漆

 漆漉(うるしこ)しによってろ過された生漆は、そのまま下地や摺り漆(すりうるし)などに使われる場合と、精製され塗り漆として使用される場合があります。精製は、生漆を専用の攪拌機(クロメ鉢)に投入し、『ナヤシ』と呼ばれる撹拌作業『クロメ』と呼ばれる水分調整の作業を行います。

 この複雑な工程さえも縄文人は理解し、制作していたことと、漆の採取と漆樹の保育管理をしていたことを知ると、縄文人の偉大さに気づかされる。縄文人は漆の持つ接着力、被覆力などだけでなく、芸術表現素材としての価値を知っていたのであろうか。

 私は、漆が人類に大きな精神的な役割を与えていたので、漆と触れ、多くの遺物を創り続けてきたのではないかと思えてならない。

 縄文人たちは野山を歩いているときに、着ていた衣服についていた漆液が、一晩置いておくと硬く固まることを体験してきた。集文人が住んでいた竪穴式住居は、土を一段掘り上げて作る。土の上は暖かく、適度な水分があり、漆が固まる好条件である。翌日になるとコチコチに固まった衣服を触って、物と物をくつつける不思議な力を持っていることを繰り返しながら学んでいったと推測している。液体が固体になるという物質の変化を、優れた接着剤として利用したのが最初であるが、縄文人は漆に対して、それ以上に「物事を癒し、治める秘めた霊力を持っていること」を知っていたに違いないと思っている。縄文人が漆塗りの衣服を身につけ、耳飾りやブレスレット、腕輪や櫛などで飾ったのは、単なるおしゃれではなく、この傷を癒してしまう力を自分の霊力としたのではないか。

 このように、漆は縄文時代の出土品を熟覧すると、その適切な使い方と高い技術を持っていたことを目の当たりにすることができる。私たちは9000年以上にわたって伝わってきた縄文時代の漆芸の歴史の上に今の日本の漆文化があることを、大事に語り継いでいかなければならない。縄文時代の漆の赤色 縄文時代の赤色系には黄色から朱色、桃色、深紅などさまざまな色調がある。同じ顔料素材でも粒子の細かさによる光の屈折、反射率の違いによって全く色が違う。顔料素材によると縄文時代の赤色顔料はベンガラと水銀朱の二種類があり、色相が全く違う。

(粒度数μmの微粒子です)
ベンガラは,紀元前5,000~6,000年前の縄文時代から土器や埴輪,建造物等の彩色として,また極めて貴重であった「朱」の代用品として用いられてきました。しかし,これらの顔料としての利用以外に,悪例や邪気を避けるための呪術的利用として顔に塗ったり,格子(ベンガラ格子)に塗布したようです。また,「代赭(たいしゃ)」はベンガラの薬名で,このような鉱物系の薬物を「金石玉丹」といい,朱などと共に仙薬(不老長寿の薬)とされ,また「阿加都知(あかつち)」「ベンガラニツチ(弁柄丹土)」とも言われていたようです。

 赤色顔料としての使用で最も古いのは、旧石器時代から利用されてきたベンガラである。『古事記』や『万葉集』にはベンガラを含む赤土を緒(鉱物性着色剤)と呼んでいる記述がある。ベンガラは漢字では紅柄、弁柄などと書く。名前の由来はインドのベンガル地方に由来する名前であるとの説があり、鉄が酸化したものであり、化学式はFeN9二酸化第二鉄)であるベンガラは紫外線に強く、着色力、隠蔽力が大きく、人体にも安全で安価なため、現在も鉄骨などの下塗りに多く使われている。

 もう一つの顔料は赤色硫化水銀で、天然の辰砂(しんしゃ)として川などに露床する。丹(に)とも呼ばれ水銀とにうがわ にう硫黄の化合物で丹砂(たんさ)、朱砂(すさ)とも呼ばれている。丹生川(にゆうがわ)や丹生神社が日本各地にあるが、これはその地域の川に多く産していた所を指している。現在では人工的に水銀と硫黄から黒色硫化水銀をっくり、これを加熱、昇華させて作ることができる漆器用顔料としては無毒とされているが、塗り重ねの際の研ぎなどの廃水を流すことほ禁止されている。そのために現在は別な方法で作った漆用赤色顔料を使う。水銀宋の色彩は金属的な銀色にも見えることで、重みと重量感が出て、今の顔料では出せない色彩である。

■縄文時代の漆の黒色

 漆そのものは塗り重ねると黒く見えるが、顔料が入っていないために完全に隠蔽される色ではない。人類は火を獲得して、真っ黒な顔料を手に入れていた。これが煤(すす)である。土器の底に着い煤は真っ黒である。油分が燃えた煤、木材が燃えた煤など微細な粉末を集めて水分を飛ばした漆の中に混ぜて黒漆を作る。顔料が入ってできる色で、塗り重ねることで重厚な威厳のある黒色を呈する。

■参考内容

黒漆は、特別なタイミングでしか作れず、一手間かかります。以前の記事《漆をくろめる》で、生漆から漆を精製する工程を書きました。黒漆はこの「くろめ」の時に作るのです。正確には「くろめ」の前、生漆の状態の時に作るといったほうが良いのでしょう。黒漆は、生漆に少量の鉄粉を混ぜて作ります。といっても、鉄粉を顔料のように使うのではありません。鉄粉は後に濾過して除去してしまうのです。生漆に鉄粉を混ぜて10日間程毎日攪拌しながら置いておきます。すると鉄粉の一部が鉄イオンとなり、ウルシオール(漆芸用語集参照)と錯体を形成することによって全ての可視光を吸収する深い「漆黒」が出来上がるのです。。生漆はちょうどミルクコーヒーのような色をしていますが、鉄粉を混ぜて数日経つと泡が立ち始め、グレーに変わってきます。色の変化がなくなった頃に漆をくろめれば黒漆の完成です。

■日本最古の掻き取り跡のある漆樹

 東京都中央区大戸の「南鴻沼遺跡」からは、数々の漆製品(上図)が出土した。今回新たに、「漆掻きの掻き傷」が残された漆の木を確認した。掻き傷は樹液の採取の際に付けられたもので、この痕跡がある漆の木としては最古である

 漆の木は、長さ113㎝、長径3.5㎝、短径2.5㎝程で、表面には、10㎝から15㎝間隔で、合計9本の掻き傷が残り、当時の掻き取り法が見て取れる。漆の木の年代を明らかにするための放射性炭素による年代測定の結果、今から約4903〜4707年前という数値が出たことで、縄文時代中期後半のものであることがわかる。縄文時代の漆の遺物 日本の遺跡地を概観すると、新石器時代の縄文遺跡から、漆液を固着材とした遺物が出てくる。漆液の持つ強が色材=顔料を固定し、あらゆる時代の遺跡から発掘される。遺物には多くのメッセージが託されている。

① 9000年前の漆塗り衣装」

 北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り製品は9070年前の物であり、世界の文化史を塗り変えることとなつた。出土した遺物は、死者がまとっていた装飾的な衣服である。一本の繊維に朱漆塗りの細い繊維まきつけた糸で織られている。死者に弔いの儀式を現在に確認できることに興味を覚える。

 この遺物は2002年12月28日の深夜に、八万点に及ぶ出土文化財とともに火災に遭った。幸いにして、形の認識と繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分焼失を免れ、分析結果から赤色顔料はパイプ状ベンガラであると確認された。その後残された塗料膜から漆のスペクトルが検出され、世界最古の漆製品であることが証明された。2004年の11月には南茅部町教育委員会により12ページの調査報告が出されている。

②「5500年前の櫛」

 福井県鳥浜貝塚からは、縄文前期約5500年前の角(つの)状の赤色漆塗りの櫛が出ている。この櫛は、石器で木を彫って漆と木の粉を合わせたもので作られている。その上に墨と漆を混ぜた黒色を塗り、さらにべンガラ顔料と漆を混ぜた朱漆で、下の里甚を塗りこめて作られている。漆黒に輝く黒髪にこの赤色の櫛を飾った人は男女どちらであったのだろう。権威の象徴として髪の毛を飾ったのだろうか。人々は神(かみ=髪)に何を祈ったのであろう

③「三〇〇〇年前の装身具」

 北海道の石狩低地帯からは、縄文時代後期、約3000年前のさまざまな朱色の漆遺物がたくさん出土する。カリンバ川の右岸にある標高二五m前後の低い段丘状にあるため、カリンバ遺跡と呼ばれる。一つの墳墓から出てくる漆の飾装身具=朱色の櫛や宋と黒色のアクセサリーは夥(おびただ)しい。死者の権威を象徴するだけでなく、死者への畏敬の念が理解できる

 ここで驚愕することは色相の違う赤色系の顔料を持っていたことである。マゼンタ系からオレンジ系まで幅広い顔料の精製技術、朱漆の練り方などを現在と比較するとレベルの高さを尊敬する。この造形物の作り手と使い手はどんな関係であったのだろうか。華やかな赤や黒のアクセサリーで身を飾っていた人たちの審美観を感じるのである。

■ 2.弥生時代以降の漆芸

 次の弥生時代は稲作、青銅器、鉄器を持った大陸、朝鮮半島の人々が日本に移り住み、興した文化であることは、歴史的遺物から類推される。

 弥生、古墳、飛鳥時代の遺物の漆製品が縄文時代と比較して極端に少ないことは、渡来人が作り上げた文化であり、縄文時代の上に重なったことから理解できる。

 その後中国の漆芸作品、漆芸技術が日本に入り大きな発展を遂げていく。ここでは時代ごとの漆芸の交流史について明らかにしていきたい。

①中国伝来の漆芸技術

 奈良、平安時代は日本の文化芸術は、色濃く中国大陸と朝鮮半島から強い影響を受けたことが、遺物や伝世品の中から読み取ることができる。日本はそれらの技法を取り入れ、独自のスタイルを生み出していくこととなる。

◉螺細 木地や塗り面に貝の殻を切り抜いた模様を象候する 

◉創金 漆面を針状の刃物で彫り、漆を入れ込んで、金を蒔き込む  

◉平脱 金属の板金を切り抜き、漆面に貼り、漆を塗り込み、研ぎ仕上げる

②日本独自の漆芸技術  

 平安時代の後期になると日本が創始した蒔絵技法が出来上がる。

◉蒔絵 漆で絵を描いて、金を蒔き、塗り込んでから、研ぎ仕上げる研ぎだし蒔絵、高蒔絵、平蒔絵技法など、黒漆と金色の豪華な対比は、やがてヨーロッパに輸出され、一大ブームを巻き起こす:またこの蒔絵技法は中国に渡り、措金技法と呼ばれる技法を起こすこととなる

③中国からの漆芸技術が日本の技法に変わる

 「堆朱」は中国名「剔紅( テキコウ)であり、朱漆を塗り重ねて、その面を彫り、塗りの断面を見せる、時間のかかる技法である。堆黒(ついこく)は中国名「剔黒(てきこく)」であり、黒漆を塗り重ね、彫っている。これらは、日本の鎌倉、室町時代に多くの名品が日本に招来され、持っていることが権力の誇示となった。需要が追いつかないために当時の日本人は簡単にできる技法を作り出すこととなる。

 木を彫って、薄く何回も漆を塗り重ねた物を「鎌倉彫」、「村上堆朱」と呼ぶ。一見すると中国の「剔紅」、「堆黒」と区別がつかないものも作られる。後には「仙台堆朱」と呼ばれる技法も作られる。

 

 中国の「創金」は鋭い細線の集積だが、日本人は刀を工夫し、点、太い線、抑揚ある線を彫り込み、漆を入れてから金を蒔く「沈金」技法を創り出す。この抑揚ある線を彫る技法は日本だけであり、多くの名品が生まれている