水俣病半世紀の歴史

■水俣病半世紀の歴史

▶︎水俣病半世紀の歴史を写し取る

熊本学院学園大教授 原田 正純

 三歳と五歳の姉妹がほぼ同時に中枢神経症状で発病したことで水俣病は発見された。姉妹を診て驚いた医師たちが、水俣保健所に「奇病」発生と届けたのが1956年5月1日であった。それからまさに半世紀が経った。

 1959年に原因はチッソ水俣工場が流した廃水の中に含まれたメチル水銀が魚貝類に蓄積され、それを摂食することによっておこつたメチル水銀中毒であることが明らかになった時、1968年に政府が正式に公害病と認定した時、1973年に裁判勝訴にひき続いて補償協定が締結された時、1990年にヘドロ処理工事が終わって、水俣湾の魚貝類の安全宣言がされた時、1996年に関西訴訟を除く約二千人の原告が訴訟を取り下げ、一万数千人の患者が認定申請を取り下げて和解した時など、ざっと挙げただけでも水俣病は何回もヤマ場を迎え「水俣病は終わった」とされてきた。しかし、そのたびに終わっていないことが明らかになってきた歴史がある。 

 2004年10月15日、唯一和解を拒否していた水俣病関西訴訟上告審で最高裁判所は国・熊本県の責任を認めた。正式確認の年の夏には奇病の原因は魚貝類と判明した。それは水俣湾産の魚貝類を食べさせたネコが水俣病に発病したからである。しかし、魚貝類の中の原因物質が不明であったことを口実に、行政もチッソも何の対策もとらなかった。そのために被害は拡大した。さらに、原因物質が明らかになっても何の対策を立てなかった。最高裁判決は遅きに失したとはいえ国・熊本県の責任を認めたことは妥当なものであった。

 また、判決は行政から水俣病を否定された患者を水俣病と認定した。それによって五十周年を期に水俣病事件の終焉を企図した目論みはまたも外れた慰霊祭などさまざまなイベントが企画されていたが、終焉どころではなくなった。五十年も沈黙を守った多くの潜在患者が新たな認定を求めて申請してきた。その数は四千人を超えた。環境大臣の私的諮問機関である水俣病問題に係る懇談会も認定基準の見直しを求めて環境省側と対立した。環境省はあくまで認定基準の見直しを拒否しており、熊本県は認定のための検診団、審査会の発足の目途もたっていない。そのために、第一次訴訟(1969年6月)、第二次訴訟(1973年1月)、第三次訴訟(1980年5月から88年2月)に加えて第四次とも言うべき千人余の新たな裁判がおこつた。それでどうして終わったと言えよう。

 水俣病は環境汚染の結果、食物連鎖を通じておこつた人類が有史以来初めて経験した中毒事件であった。さらに、胎盤を介して胎児に中毒をおこしたことも人類初の経験であった。一ケ月でネコが発病するような濃厚にメチル水銀で魚貝類が汚染された例が世界のどこにあっただろうか。二十万人以上が汚染されたような広範な汚染地域がどこにあっただろうか。したがって、重症者の底辺にはその何十倍ものさまざまな程度の患者が存在することは常識である。謙虚に実態を見るなら「感覚障害だけの水俣病はない」などという事実も証拠も全くない。それを患者たちが延々と裁判をおこして裁判官にその判断を求めること自体、行政責任の放棄である。

 メディアもまた時々の流れに沿って、あるときは大きく頻繁に取り上げ、あるときは終わったかのごとく沈黙した。しかし、映像だけはその流れに関係なく静かにその時々の姿を切り取って写し出してくれる。それが記憶へつながり、教訓へと昇華する。

 水俣病の教訓とは失敗を語ることである。水俣病五十年を迎えるに当たって企業の失敗、行政の失敗、医学の失敗、司法の失敗、メディアの失敗などなどあらゆる分野で厳しく検証する絶好の機会としなければならない。

■存在の深層世界に降り立ちて

一漁師 緒方 正人

 万物の生命をこよなく抱擁する、美しき山河と天草の島々によって内海を形成する環不知火海。ここは、数多いのちの連環する大いなるガイア(生命母体)であった。あろうことか、この永遠の祖国に猛毒を盛るに及んで発生したのが水俣病である。

 

 この物語の展開は、五十年の事件史のみならず近代国家への野望を目指す時代の象徴として、水俣に出現した化学工場チッソ。その創業から数えて百年の現在、水俣病事件に秘められた命題を読み解き、課題に応答する責任を私達は自覚しなければならない

 図らずも私は、その歴史的体験の現場に生誕し、幼少記憶のはじまりから海の魚たちやネコたちの苦しむ異変を目撃するや、ついに我が父の狂死の様を見せつけられた。当時」二歳の幼心は驚愕の激震に狼狽え続けた。

 おそらくその時、突きつけられた極限の惨劇を目前にして、迷子になった私の魂は「ある何かに救いを求めた」のであった。それが私の、水俣病という「課題の発生」を意味する動機の起源であり、深遠な謎解きの因子が心体記憶として埋め込まれたことを思い起こす。それはまるで体内時計の働きの如く、苦悶の五十年を刻んできた。

 「課題の発生」といえば聞こえはいいが、しかしそれは、純粋な幼少期に父親を殺されたことに深い怨念を抱いての苦悶のはじまりだった。

 水俣の聞いは、現象的には外敵である加害者達との戦いが衆目を集めてきたが、実は内なる自己との聞いの方がはるかに本質的である。何故なら、加害者達によって親、兄弟、我が子を惨たらしく殺された受難の人々は、強い怨念を抱き、その奥底には殺意さえ隠れていたであろう。私もその一人であった。

 しかしながら、情念においては 「いのちの願い」を叫び人間の有り様を訴えてきた。その矛盾する両儀の人間苦と葛藤し、自問自答の永い歳月を歩んできたと思う。

 だからこそ受難者の誰一人として、加害者たちに意趣返しの殺意を実行せず、情念の倫理規範に踏み止まり、帰属するガイア生命の摂理の秩序に従ったことは、物語に一貫した深い生命感覚の意味を啓示している。

 欲望に駆り立てられた国策による犯罪水俣病。その加害者らとこれに追随した時代社会のおぞましい価値意識には、「いのちを哀れむ生命感覚」が欠落していたと断罪せずばなるまい。そして五十年の今、欲望の果てにある現代社会の生命感覚は、まことに嘆かわしい現況という他ない。

 私は、水俣という山河不知火の生命界にとって最も必要なことば、失われてきたあらゆる「関係性の秩序を回復させる」ことであると思う。それは人と人であり、人と山河不知二や火海。その世界の内に「いのちを舫(もあ)い」壊された生態秩序を回復させることを一番の願いとしている。悲願の「蘇(よみがえ)りとは」このことであろう。

 すなわちそれは、水俣だからこそ 「水俣から自治に目覚める」のだと、歴史は物語ってやまない。それが、ガイア生命総体の「いのちの願い」ではあるまいか。 しかるべきとき。なんとその水俣に、大規模な産業廃棄物処分場の建設を東京の民間業者が企てている。

 この問題は、水俣病の歴史的体験を人々にフィードバックさせ、かつてない反対運動が起きている。この危機を乗り越えるには、「山河不知火海に舫(もあ)う自治の精神」に立ち還って、水俣は再びの産廃毒のゴミ捨て場ではない! と立ちあがらねばならない。

 私たちは今、この五十年(互重年)、さらにチッソ来水から百年物語の総括と人間の存在的価価が問われている。それはまた歴史による、現代社会への普遍的な要請でもある。