長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

■長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産登録を目指す「」(長崎、熊本両県)について、諮問機関が「登録」を勧告した。日本政府が最初に推薦書を出したのは3年前。一度は推薦を取り下げ、「禁教期」に焦点を絞った戦略変更の末に得た、念願の勧告となった。

 パリの世界遺産センターが3日(日本時間4日)、諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」の勧告を政府に伝えた。江戸幕府がキリスト教を禁じた17~19世紀、長崎県と熊本・天草地方で伝統的な宗教や社会と共生しながらひそかに信仰を守り続けた「潜伏キリシタン」が育んだ独特の文化的伝統を示す遺産群。

 イコモスは、信仰を集めた離島も含む集落、潜伏キリシタンが神父に信仰を告白した大浦天主堂など12の構成資産すべてに「顕著な普遍的価値がある」とし、範囲も適切で保存状態も良好だと評価した。

 勧告までの道のりには曲折があった。2015年、最初の推薦書提出時はキリスト教の伝来と浸透を示す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」で構成資産は14あった。だがイコモスから「禁教の歴史の特殊性に焦点を当てるべきだ」と中間報告で指摘を受けた。政府は推薦を取り下げ、禁教期と関係が薄い2資産を除外して練り直し、昨年、推薦書を再提出していた。

 一方、世界自然遺産への登録を目指す「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」(鹿児島、沖縄両県)については、諮問機関の国際自然保護連合(IUCN)が「登録延期」を勧告。豊かな生物多様性の価値は認めたものの、抜本的な見直しを求めた。


■顕著な普遍的価値

 ユネスコ世界遺産委員会が策定した作業指針において、「顕著な普遍的価値」とは、「国家間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来世代に共通した重要性をもつような、傑出した文化的な意義及び/又は自然的な価値を意味する。」と示されています。

 「長崎ながさき天草あまくさ地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、17世紀から19世紀の2世紀以上にわたる禁教政策の下で密かにキリスト教を伝えた人々の歴史を物語る他に例を見ない証拠である。本資産は、日本の最西端に位置する辺境と離島の地において潜伏キリシタンがどのようにして既存の社会・宗教と共生しつつ信仰を継続していったのか、そして近代に入り禁教が解かれた後、彼らの宗教的伝統がどのように変容し終焉しゅうえんを迎えていったのかを示している。

 本資産は、大航海時代にキリスト教が伝わったアジアの東端にあたる、日本列島の最西端に位置する長崎ながさき天草あまくさ地方に所在する12の資産から成る。16世紀後半に海外との交流の窓口であった長崎ながさき天草あまくさ地方に定住した宣教師の指導を直接的かつ長期間にわたって受けた長崎ながさき天草あまくさ地方の民衆の間には、他の地域に比べて強固な信仰組織が形成された。このような状況のもとで、17世紀の江戸幕府による禁教政策により日本国内から全ての宣教師が不在となった後も、長崎ながさき天草あまくさ地方では少なからぬカトリック教徒が、小規模な信仰組織を維持して信仰を自ら継続し、「潜伏キリシタン」となって存続した。

 潜伏キリシタンは、信仰組織の単位で小さな集落を形成して信仰を維持し、そうした集落は海岸沿い、または禁教期に移住先となった離島に形成された。2 世紀を越える世界的にも稀な長期にわたる禁教の中で、それぞれの集落では一見すると日本の在来宗教のように見える固有の信仰形態が育まれた。

 本資産は、12の異なる構成資産が総体となって、潜伏キリシタンの伝統についての深い理解を可能としている。本資産は、禁教政策下において形成された潜伏キリシタンの信仰の継続に関わる独特の伝統の証拠であり、長期にわたる禁教政策の下で育まれたこの独特の伝統の始まり・形成・変容・終焉しゅうえんの在り方を示す本資産は、顕著な普遍的価値を有する。


■日本の在来宗教(キリスト教伝来以前)

 キリスト教が伝わる前の日本には、紀元前に起源をもつ神道と6世紀に伝播した仏教、さらにそれらが自然崇拝と結びついた山岳信仰などの在来宗教が存在した。日本人の多くは仏教徒であると同時に、地域の神社の氏子うじこも勤めたり、聖地とされた山岳を拝むこともあった。

このように日本人の多くは、単一の宗教を信仰するよりも、複数の宗教を並存、あるいは習合した状態で信仰することが一般的であった。

■キリスト教(カトリック、プロテスタント)

 16世紀半ばにローマカトリックの一派であるイエズス会の宣教師により、はじめて日本に伝えられた。宣教と一体であったポルトガル船との貿易利潤や、改宗した領主の保護などにより、最大約37万人の信者がいた。

 17~19世紀半ばの厳しい禁教下も、長崎ながさき天草あまくさ地方の一部でカトリック由来の信仰が継続し、1873年の解禁時点で、2~3万人の潜伏キリシタンがいた。日本は、禁教期にプロテスタントのオランダ人と貿易を続けたが、オランダ人は宣教活動を全く行わず、プロテスタントは日本に伝播しなかった。

 カトリック、プロテスタント共に、19世紀後半の日本の開国に伴い、居留地の外国人のために宣教師を派遣した。その両方が、長崎ながさきの居留地で潜伏キリシタンと出会ったが、カトリック由来の信仰をもつ潜伏キリシタンの一部が、カトリックの一派であるパリ外国宣教会の指導下に入った。

 1873年の解禁以降、カトリックとプロテスタントの宣教師は、潜伏キリシタンではない、一般の日本人にも宣教を行うようになった。

 世界遺産への登録は、6月24日からバーレーンで開かれる世界遺産委員会で最終的に決まる。