運慶と足利 氏

■ 樺崎寺跡(かばさきでらあと)氏寺奥院に伝わった二軀の大日如来像(真如苑)

 栃木県足利市は、のちに室町幕府を開く足利氏のふるさと。足利氏2代当主の足利義兼(よしかね)は、母が源頼朝の従妹で、妻が北条政子の妹という関係から、初期の鎌倉幕府内での地位は将軍に次ぐほど高かった。この足利義兼が創建し、のちに氏寺鑁阿寺の奥院(ばんなじおくのいん)として機能した寺院の跡が樺崎寺跡である。ここで義兼は亡くなったという。樺崎寺は近世に荒廃して廃絶、1984年から発掘調査が始まり、現在は浄土庭園や堂塔の礎石跡が復元されている。

 地位は将軍に次ぐほど高かった。この足利義兼が創建し、のちに氏寺鑁阿寺(下写真右)の奥院として機能した寺院の跡が樺崎寺跡である。ここで義兼は亡くなったという。樽崎寺は近世に荒廃して廃絶、1984年から発掘調査が始まり、現在は浄土庭園や堂塔の礎石跡が復元されている。

 

 この樺崎寺にかつて安置されていたと考えられる仏像が、現在、東京の真如苑真澄寺と足利市にある光得寺(上写真)が所蔵する2軀の大日如来像である。室町時代の史料「鑁阿寺鐙樺崎縁起 并仏次第(ばんなじかばさきえんぎならびにぶつじしだい)」などから、真如苑大日如来像は建久4年(けんきゅう・1193)頃の作で、光得寺大日如来像は足利義兼が亡くなる 建久10年(1199)頃の作と考えられている。

 この2軀の作者を示す史料はないが、その作風とX線写真で確認された像内納入品によって、運慶作品であると広く認められている足利義兼は、北条時政の願成就院、和田義盛の浄楽寺での運慶の造仏を見聞して、頼朝との緑を通じて運慶に発注したことも想像される

  ■樺崎寺跡

 足利市街の北東に位置する。樺崎寺は八幡山を背にして東を正面とする。樺崎寺の下御堂(しものみどう)に安置されていたのが真如苑大日如来像、いま樽崎八幡宮が鎮座する地にあったという赤御堂(あかのみどう)に光得寺大日如来像が安置されていたと推定されでいる。2軀の運慶仏はわずか数十m離れた場所に祀られていた(写真提供/足利市教育委員会)