銀閣寺

■š東山文化を伝える庭園建築 

工藤圭章

▶足利義満と重閣の観音殿

 室町幕府の名のおこりは、将軍足利義満が永和四年(1378)に造営した邸宅が室町通りの東、北小路の北にあって、室町殿と呼ばれたことによる。この場所は先年焼失した崇光上皇(すこうじょうこう)の仙洞御所の場所で、仙洞御所の時にすでに花御所の名がつけられていたので、引き続いて彼の室町殿も花御所と呼ばれた。義満は当時征夷大将軍であるとともに権大納言右大将も兼ねていた。したがって、彼のこの邸宅には格式ある公家として相応(ふさわ)しい殿舎が備えられた。室町通りから正門を入ると、まず中門と中門廊があり、そこから東の寝殿に至る。この部分は公的な建物の並ぶところで、寝殿の東には小御所(こごしょ)、勝音閣(しょうおんかく)、泉殿(いずみどの)、会所(かいしょ)など奥向きの建物が池庭に臨んで建っていたという。

 

義満の子の義持(よしもち)が住んだ三条坊門殿にも勝音閣と名づけられた観音殿が建てられており、室町殿の勝音閣も観音を祀った建物に違いない。この建物は閣の名がついているので二階建てだったと思われる。

 足利将軍家では初代の尊氏観音に崇敬の念を捧げていた。建武三年(1336)兵庫で新田義貞、湊川で楠木正成を撃破して京都に入った尊氏は、光明天皇を立てたのち清水寺に詣でて求道心の賜らんことを観音へ念じている。尊氏は建武五年1338年征夷大将軍に任じられたときは、押小路高倉邸(おしこうじたかくらてい)を居所としている。尊氏は自分の信じる観音を祀るため、押小路高倉邸の寝殿と常御所(つねごしょ)の間に観音殿を建てており、これが後代の将軍家にも踏襲されたのであった。この邸宅はのちに等持寺(とうじじ)に改められたが、中門廊のとりついていた寝殿を

北山殿舎別殿の姿を伝える薦苑寺金閣仏殿、常御所を方丈にと、邸宅の建物をそのまま寺に利用している。

 室町殿花御所と呼ばれたように、邸宅内には花樹がたくさん植えられ、池に臨んで泉殿があり、そしてそこにはまた二階建ての観音殿の勝音閣があって、庭園建築を意識させた優雅なたたずまいが想像される。この邸宅は仙洞御所となる前は、義満の父足利二代目将軍の義詮(よしあきら)の別荘の上山荘の地であった。


 永和三年に仙洞御所が焼失した際にともに燃えた南の今出川家の菊亭の地をもさらに買い足して室町殿としたので、この敷地には北御所と南御所の二つの御所が建てられた。義満は両御所を含めて将軍邸としたが、さらに父と同じように別荘の建立を計画し、応永四年(おうえい・1397)北山殿の造営をはじめている。北山殿は京都の西北、衣笠山の東麓にある。この地は元仁元年(1224)に西園寺公経(きんつね)が創建した西園寺のあった場所である。西園寺は同氏の菩提寺であるとともに山荘でもあこうって、本堂・三身堂(さんしんどう)・妙音堂から成る伽藍を中心として、長増心院、善寂院、無量光院などの仏堂群と南北に寝殿のある殿舎群があった。そして邸内には大池のある庭園があり、滝や泉、そして石組などもあって景勝の地として知られ、天皇をはじめ、院や女院の行幸、御幸を幾度も迎えた有名な場所であった。

 建武二年に西園寺公宗(きんむね)が鎌倉幕府の再興を企てた罪で死を賜ってから西園寺家は権力の座から離れるようになり、この寺も衰退したので、義満が名宛のおもかげを残すこの地を手に入れたのである。したがって、まったく さらちの更地ではなかった。義満はこの山荘づくりにあたっては諸大名に協力させている。

 義満はこれより前、応永元年の暮に将軍職を子の義持に譲り、新たに太政大臣という公家最高の顕官に登っている。しかし、彼はその地位を半年ほどで辞し、夢窓国師影前で剃髪して出家した。彼の山荘づくりはこのような無冠であったが武家・公家を超越した立場で行ったので、そこには室町殿を凌駕する殿舎が企画されねばならなかった。室町殿を子義持に譲り、義満はこの山荘をむしろ彼の御所として用いている。ここにも北御所・南御所の両御所が建てられ、それらはみな北山殿の名で呼ばれた。北山殿にあった建物の中では寝殿・小御所・舎利殿・護摩堂・懺法堂(せんぽうどう)・天鏡閣・泉殿・会所・看雲亭(かんうんてい)などの名が知られている。

産苑寺金閣の一階内部(右)と二階内部(左)撮影・柴田秋

 これらは北御所に属し義満が居住(下写真左)した。一方、南御所は夫人の日野康子が居住し、ここにも寝殿をはじめとして多くの殿舎が建てられていた(下写真右)

 

 北山殿では室町殿よりたしかに建物が多く建てられたが、個々の建物も室町殿より優れたものが多かったという。室町殿では観音殿が二階建てであったが、北山殿における舎利殿は三階建てで、二階建ての観音殿の上にさらに一階を上げたものであった。また会所も北山殿は二階建てにつくられ、天鏡閣と名づけられている。会所とは連歌や闘茶などの遊戯・娯楽のための集会に用いられた建物で、接待の場所として室町時代のはじめから武家・公家・社寺など貴顕(きけん)の人びとの邸宅につくられていた。将軍邸では会所は義満の室町殿ではじめて設けられ、それが北山殿でさらに立派にされたのである。北山殿の会所では唐絵や花瓶・香炉などの唐物を飾り趣向を凝らしたという。

 応永十五年に義満が没してから、翌年はやくも北山殿の一部の建物将軍義持の邸宅の三条坊門殿に移築されており、夫人の康子が応永二十六年に亡くなってから、由緒ある建物は南禅寺や建仁寺に移され、北山殿は義満に改められた。北山殿の豪華さは、かつての北山殿舎利殿の姿を伝える鹿苑寺金閣を通して想像できるだけである。

 創建時の舎利殿すなわち金閣は、昭和二十五年七月に焼失して昭和三十年に再建されている。この再建にあたってはそれまでの修理で改められた部分を復原し、創建時の姿に再現されている。義満は室町殿にあっては勝音閣を、北山殿にあっては舎利殿をと、重閣の観音殿邸宅内の庭園建築として取り入れた最初の人であった。

▶足利将軍邸のうつりかわり

 義持が将軍職を義満から譲られたのはわずか九歳のときであり、はじめは室町殿を御所とみのこうじ までのこうじとしていた。義満が没した翌応永十六年、彼は三条坊門の南で富小路と万里小路(までのこうじ)の間の祖父義詮の邸宅のあった万一町の敷地に新しく三条坊門殿を造営した。この邸宅には寝殿・小御所があり池の周辺には泉殿・会所・観音殿・持仏堂が建てられた。建物には嘉名(かめい)をつけ泉殿は養源会所は嘉会、観音殿は一階を覚苑殿、二階を勝音閣と称し、持仏堂の書院は安仁斎(あんじんさい)、その仏間は探源(たんげん)と命名した。義持の子義量(よしかず)は応永三十年に十七歳で将軍に任ぜられたが、二年後に父に先立ち夭折(ようせつ)し、この三条坊門殿は義持の弟義教(よしのり)が将軍となり受けついだ。

 しかし、義教は父義満の室町殿の跡にやがて新御所を造営しているので、足利将軍邸は三条坊門殿と室町殿がほぼ将軍の代がわりごとに建て直されたことになる

 永享九年(えいきょう・1437)ころに完成した義教(よしのり)の室町殿は寝殿・小御所のほかに、泉殿・会所・観音殿・持仏堂があって、代々の将軍邸と同じような建物で構成されていた。嘉吉元年(かきつ・1441)に義教が重臣の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれて饗応を受けていた際に、満祐に不意に襲われて殺害されたため、子の千也茶丸(ちやちゃまる)が朝廷から義勝の名を賜って翌年将軍となり、この室町殿は義勝にひきつがれたが、義勝は赤痢のため嘉吉三年にわずか十歳で死去している。

  したがって、家督は二つ違いの弟の三春(みつはる)が継いだ。しかし彼は幼少であるために養育されていた日野資任(ひのすけとう)の烏丸殿を御所とし、室町殿の建物は解体されて烏丸殿に運ばれた。したがって、烏丸殿にもその後に泉殿・会所・観音殿・持仏堂が建てられている。

 三春も兄の義勝に倣って朝廷から名を賜り義成(よししげ)と称した。義成が征夷大将軍に任じられたのは宝徳元年(1449)になってからである。いわば六年間ほどは将軍の空白時代であった。義成は武事よりも文事を好み、宝徳三年には邸内に学問所を建てている。義成は享徳二年(1453)に義政と改名した。十八歳のときである。烏丸殿には文安二年(1445)ころから室町殿の寝殿が解体移築されていたが、烏丸殿の既存の建物を壊しては室町殿の建物を運ぶという工事をつづけていたので、享徳二年になっても完成されず、長禄二年(1458)にようやく完成している。しかし、烏丸殿の整備が終わったところで、義政は今度はまたもとの室町殿に新邸を造ることを決定している。義政は烏丸殿の造営をしているうちに、建物と庭園の調和に熱中し建設工事が趣味となったようである。

 義政は長禄二年に諸大名に造営を命じ烏丸殿から室町殿へと建物の移築をはじめ、翌三年には観音殿を移建し、翌々年には地蔵菩薩を祀る仏護堂や会所・泉殿も建て、寝殿や常御所の表向きの建築はもちろん、内向きの建築も寛正元年(1460)ころまでには一応整備している。室町殿が造営されていた長禄・寛正のころは、水害・干害・冷害・地震などが相ついでおこり、地方から京都へ難を避けて流入する人も多く、巷には行倒れの人びとが溢れるほどの惨状が見られたという。義政にはこういう庶民の悲しみは通ぜず、建設工事をおこし華美をつくした生活を続けていた。室町殿の泉殿・観音殿・会所や、その泉水の素晴らしい様子を、相国寺(しょうこくじ)の蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)の季瓊真蘂(きけいしんずい)は「その華麗、その珍宝の種々、ほとんど枚挙すべからざるなりけり」と彼の目録に書いているし、東福寺の雲泉大極(うんせんだいきょく)はまた「その園地を観るに池に湖橋あり、橋東に長松あり」と述べ、「廊や廉は重複し、楼殿は高くあがる。ややその内に入れば、すなわちほとんど迷楼の九曲に遊ぶが如く、向こう所を知らず。土木の工これに尽く」と 『碧山日録(へきさんもくろく)』 に記している。

 義政春は花見、秋は紅葉狩りと遠出するのを好んだ。彼のよく赴くところは、西芳寺・若王寺・花頂山・大原野・高尾であったが、とくに西芳寺は彼がお気に入りのところであった。西芳寺の大桜は有名であつたが、彼が心をひかれたのは夢窓国師疎石の作庭した庭園と建築であった。

 疎石は正和二年(しょうわ・1313)美濃の多治見に留錫(りゅうしゃく)して庭園と伽藍の整った永保寺(えいほうじ)をつくっており、また、嘉暦二年(かりゃく・1327)には鎌倉に瑞泉寺を建て、地形を活かして名園をつくっている。疎石は作庭は禅の修行の一つと考えていた西芳寺の庭園は疎石が中興の開山として暦応二年(りゃくおう・1339)に招かれてからつくったもので、義政は疎石の作庭に心をうばわれ、調和のある庭園と建築の造営を夢みたのであった。

▶東山殿から銀閣寺へ

 足利義政は寛正六年、義満の北山殿を真似て東山の地に山荘を建てることを計画し、まず、南禅寺の恵雲院をその候補地と定めた。前年に弟の義視(よしみ)を養子としており、彼に将軍職を譲って別荘づくりをと考えたからであった。しかし、応仁の乱がおこったためこの計画は頓挫した。もとはといえば、義視を養子としたのち義政には実子の義尚が生まれ、義視と対立したのが事の発端であった。

 結局は文明五年(1473義尚が元服して九歳で将軍に任じられている。文明八年、室町殿が乱の渦中にあって焼失した。室町殿が燃えて応仁の乱もどうにかおさまってみると、義政の胸の中にまた花鳥風月を賞(め)でての山荘住まいへの欲求が再燃し、文明十二年に岩倉や嵯峨などを見て廻り、最後に東山山麓の浄土寺の地を山荘に定めて文明十四年から造営をはじめた。これが東山殿である。彼は翌十五年この東山殿に常御所ができると、早々にここに移っている。

 義政は東山殿に住まいながら造営をつづけた。造営費は遣明船による勘合貿易の利潤とこれに従事した商人からの納入金をあて、さらに諸国から田畑の一反別にいくらと税を課す段銭(たんせん)を徴収した。文明十七年には山上に超然亭(ちょうぜんてい)ができ、持仏堂の西指庵(せいしあん)が建てられ、翌十八年には東求堂もできている。東山殿は西芳寺を手本に庭園と建築が造営されたのであって、西指庵と東求堂は西芳寺の指東庵(しとうあん)と西来堂(さいらいどう)に倣って建てられたものである。西指庵と東求堂にはともに書院がつくられ、それぞれ安静、同仁斎と命名されている。両書院とも書棚が造りつけられ、前者には仏書、後者には文学書が置かれた。

  

 東山殿では長享元年(1484)に会所や泉殿ができ、延徳元年(1489)には観音殿が建てられている。この観音殿がいまに残る銀閣である。東山殿はもともと隠居した義政の山荘としてつくられたので公的な寝殿はつくられなかった。しかし、この年の春、近江の陣中で将軍義尚が二十五歳の若さで亡くなり、将軍の後継者がいなかったため、義政が再び政務を執らざるをえなくなって、公務のための寝殿の建設がこの夏になって着手された。だが、義政はこのころから中風再発し、それが方位からみて悪い位置で寝殿の道立が着手されたからであるというので建設を中止している。義政は翌延徳二年(1490)に死去したので、東山殿には結局寝殿ができなかった。東山殿は義政の死後、禅寺に改められ、彼の法号の慈照院に因んで慈照寺と名づけられた天文年間(1532〜55兵乱のため慈照寺では多くの建物が焼失し、東山殿の遺構としていまに残るのは銀閣と東求堂だけである。

   

 慈照寺に入ると庫裡(くり)を左手に見て玄関に導かれる。玄関を通ると方丈前の銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)が目につく。これは江戸時代はじめころにつくられたものだが、瓢箪形にくびれた池の中央部に向かって広がる方丈前庭を引き締めるように見える。方丈は寛永ころの建立という。東求堂は銀沙灘東の池に南面し、向月台の西には観音殿すなわち銀閣が東面して建つ。

 銀閣は一階を心空殿、二階を潮音閣(ちょうおんかく)という。一、二階とも柱は角柱だが、一階は柱上に舟肘木(ふなひじき)、二階は出三斗(でみつど)を置き、中備(なかぞなえ)に間斗束(けんとづか)を入れる。軒は二軒の疎垂木(まばらだるき)だが、二階は大疎(おおまばら)とし垂木先に禅宗様の渦の絵様繰形(えようくりかた)をつける。一階の屋根は四方に回り、上部に高欄(こうらん)つきの縁をつける。二階の屋根は皮葺(ひわだぶき)宝形造(ほうぎょうづくり)で屋頂に露盤(ろばん)を据え鳳凰を上に飾る。

 銀閣の一階は東側南は広縁となり鏡天井を張る。東側北は棒線天井の六畳の座敷で東面は広縁から落緑(おちえん)が連なっている。西側は南が八畳大の板の間で、周囲は明障子をいれた窓で、天井は格天井がはられる。西側北も板敷で、ここから二階に上る階段が設けられている。一階は各室とも簡素で住宅風な構成になる。これに対して二階観音殿としてつくられたため禅宗様の仏堂風の趣きを示す。窓は花頭窓(かとうまど)をめぐらし、側面中央に桟唐戸(さんからど)をたてる。内部は板敷で天井は格天井となり、中央後ろ寄りに須弥壇を置き洞中観音坐像を祀る。東面と西面には持ち出しの長連床(ちょうれんしょう)が造りつけられていて、この外部の上端には如意頭文(にょいとうもん)を連続して飾っている。

 東求堂は瀟洒(しょうしゃ)な住宅風の持仏堂で南面する。柱は角柱で長押をまわし小壁は漆喰塗である。正面は仏間のため桟唐戸を建て両脇に連子窓が開かれるが、他は各面とも引違いの舞良戸(まいらど)を建て内側に明障子をいれる。仏間入口の上には「東求堂」の額が吊られる。内部は四室に分かれ、南には二間四方の仏間とその東に四畳の脇座敷があり、仏間西には位牌壇が設けられる。北は東に四畳半の書院の同仁斎があり、北側に付書院と違棚の書棚がつく。付書院の外側上には「同仁斎」と記された額が掲げられる。同仁斎西には六畳間がある。東求堂の周りには四周に縁がつき、仏間の位牌壇の真には腰掛があり「隔簾」の額がある。東求堂の仏間には阿弥陀如来が祀られており、この部屋だけは天井を小組折上格天井(こぐみおりあげごう)としている。他の各室の天井は猿頰縁(さるぼおぼち)の天井である。同仁斎の付書院は厚い押板を机板としている。

 付書院は本来、本を読み文を書くための机であり、文房具が並べられる。これに付属する違棚は書物を並べた書棚である。同仁斎の違棚は天袋が吹き抜けになり地袋に板戸をいれる。付書院(つけしょいん)や違棚には唐物が飾られて座敷を装飾するので、のちには付書院や違棚自体が座敷飾りとして整えられる。同仁斎はその初期のものとして注目される。内部の内法長押(うちのりなげし)上にはさらに蟻壁長押(ありかべなげし)がまわり、小壁は天井下に細い蟻壁を設けている。

 東求堂は柱上には舟肘木(ふなひじき)をのせ桁をうけ、垂木(たるき)は二軒の疎垂木(あらばだるき)として軒を軽快にみせる。屋根は入母屋造で檜皮葺になる。妻は狐格子で格子の竪子が屋根面まで下がり古式を伝える。破風の拝みの懸魚(げぎょ)は梅鉢懸魚で素朴である。この建物では両端に獅子口を飾る大棟(おおむね)が、建物の中央より後ろ寄りにある。したがって、正面の屋根の勾配が背面より緩くみえ、柔らかさを感じさせる。ところで、江戸時代の記録には、東求堂は銀閣の近くにあったのを、いまの位置に移したと伝えているが本当かどうかよく分からない。

 慈照寺には観音堂と東求堂と創建時の建物が二棟残り、義政の東山殿の結構を偲ばせくれる。観音殿は銀閣と呼ばれているが、義満の造立した北山殿の舎利殿が金箔を貼って金閣と呼ばれたように、この建物に銀箔を貼るつもりだったか明らかでない。義政が死去し完成に至らなかったためか、いまの建物には銀箔を貼った痕跡は認められない。しかし、銀閣の名は人口に膾炙(かいしゃ・広く言われていること)し、慈照寺の名よりも銀閣寺の名の方が有名になっている。

▶庭園建築としての楼閣づくり

 池庭に臨んで建てられる楼閣は、その姿を水面に映して小波に揺れ幽玄の趣きを醸しだす。庭園建築として知られる楼閣では義満の山荘北山殿の舎利殿、すなわち鹿苑寺金閣がもっとも有名で、鹿苑寺(ろくおんじ・臨済宗)の名も金閣寺で代表される。金閣は南面する三階建てで、東、南、西の三面が鏡湖池に接している。一階は法水院、二階は潮音閣、三階は究竟頂(くきょうちょう)と呼ばれ、一階から池に漱清(そうせい)の名がある泉殿が張り出す。金閣が舎利殿と呼ばれたのは建立したとき三階に舎利を祀ったからであった。上層に舎利を安置する楼閣には当時一階が瑠璃殿二階が無縫閣と呼ばれた西芳寺の舎利殿が知られており、北山殿の舎利殿はそれをさらに立派にしたものであった。金閣の名は二階・三階に金箔が貼られたことに由来する。

 

 金閣の一階法水院は如来殿ともいう。釈迦如来が祀られていたからという。しかし、両脇侍は観音・勢至の両菩薩だったというので阿弥陀如来だったかもしれない。いまは仏壇に釈迦像が祀られ、その脇に義満の像が安置されている。仏間の長押は彩色され美しい。

 池に面しては広縁があり広縁と仏間の境には蔀戸(しとみど)が吊られている。側面には妻戸(つまど)が開かれるだけで、あとは背面ともども白壁である。蔀戸と妻戸の建具の並ぶ様子は寝殿造風である。二階は四方に緑をめぐらす。緑の腰組(こしぐみ)は挿肘木二手先(さしひじきふたてさき)である。二階の組物は大斗(だいと)で通肘木(とおりひじき)をうけ、軒は二軒疎垂木で垂木先には禅宗様の絵様繰形をつける。正面西半は広縁とし天井には彩画が施され、仏間境は板扉と両脇に格子窓を配している。

 

 いずれも金箔貼りで光り輝く。仏間内部は床が黒漆塗で中央に須弥壇を置き、岩窟に坐(いま)す観音を祀る。壇の左右には四天王が配され天井には飛天が描かれる。仏間東は十六畳大の板間で、建具は池側が舞艮戸、他は板壁である。三階は禅宗様の仏殿となり各面とも中央は双折(もれおれ)桟唐戸、両脇が花頭窓である。南面中央には「究竟頂」の扁額を掲げる。組物は出三斗で軒・垂木は二階と同じようになる。内部の床もやはり黒漆塗とする。鹿苑寺となってから三階には応仁の乱までは阿弥陀三尊と二十五菩薩が祀られていたというが、いまはもうその所在は知られていない。金閣の三階の屋根は宝形造で屋頂には露盤を置き鳳凰を飾る。

 わが国ではかつて伽藍の中に鐘楼・経楼(しょうろう・きょうろう)など楼造りの建物が建てられ、また、楼門なども建てられたが、二階は積極的に仏堂あるいは居住空間として利用されていなかった。しかし、鎌倉時代になって禅宗寺院が建てられるようになって、二重門の三門の二階には観音や十六羅漢が祀られ内部も極彩色で装飾される。そしてまた、中心伽藍の一つである法堂でも二階建てとなるものがつくられ仏像が祀られている。例えば泉涌寺では楊柳観音、東福寺では文殊菩薩と五百羅漢が祀られており、また、建長寺では祀った仏像から二階千仏閣の名があった。楼閣は禅宗寺院ではさらに方丈にまで及び、建仁寺では慈視閣(じしかく)、建長寺では得月楼・蓬春閣南禅寺塔頭(たっちゅう)雲門庵では甘露宝閣(かんろほうかく)と呼ばれる二階が方丈の上につくられた。

 

庭園建築として有名な飛雲閣(左・西本願寺)と聴秋闇(右・横浜三渓園)

 西芳寺の無蓬閣もこうした流れの中で考えられ、足利将軍邸における二階建ての観音殿へと発展し、金閣・銀閣を生みだしたのである。

 楼閣づくりの庭園建築として金閣・銀閣に次いで有名なのは西本願寺の飛雲閣である。この建物は本願寺境内の東南隅の一郭にあり、適翠園と名づけられた庭園に北面して建つ。三階建てで一階は招賢殿(しょうけんでん)、八景間(はっけいのま)、船入間(ふないりのま)、茶室からなる。招賢殿には上々段と上段が設けられる。上々段は三畳で付書院がつき、上段は七畳半で大床がつく。招賢殿と八景間は襖四枚で仕切るので、襖を開くと四十畳をこす大広間となる。北面には滄浪池(そうろういけ)があり、船は船入間に引き入れられるようになっている。二階は歌仙間で、ここにも上段がつく。三階は摘星楼(てきせいろう)で片隅に床がつく。この建物は内部は書院風の建物であるが、外観は二階を仏堂風に見せ、随所に花頭窓やその変形の窓を空け、船入間や二階には唐破風、上々段の付書院や上段大床上には入母屋の妻をみせ変化に富む。飛雲閣は豊臣秀吉の造営した聚楽第から元和年間(げんな・1615~24)に移築されたと伝えられるが、確かではない。

 楼閣の庭園建築としては、他に横浜三渓園の臨春閣聴秋閣がある。臨春閣は数寄屋風が加えられた書院造で、桂離宮の書院群のように建物が雁行する。この建物も聚楽第にあったと伝えられるもので、文禄四年(一五九五)に伏見城内に移され、さらに元和五年(一六一九)に紀州徳川家が賜ったという。しかし、この伝えも確かでなく、紀州侯の別邸の紀の川岸にあった巌出御殿だったようである。この御殿は慶安二年(一六四九)に建てられたらしい。三渓園の現在地には明治三十九年に原富太郎が購入して移築している。楼閣は一番奥の天楽間の上にあって村雨間(むらさめのま)と次の間から成る。聴秋閣も書院風の建物で元和九年に京都二条城内に建てられたものである。一階は茶席と次の間から成り、数寄屋風を加味している。軽快な小規模な建物であるため、軽妙酒脱な趣きを与える。金閣・銀閣にみられるような楼閣は楷書的な回さの美しさを示しているのに比べ、以上のような書院風の楼閣はまさに草書的な柔らかさを示す。そこに時代による庭園建築の流れを見出せよう。

■銀閣寺内外カラー図版説明