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■特別出品

▶︎ポール=ドモワの洞窟 1988  クロード・モネ 1840-1926

 印象派を代表する画家モネは、フランスのパリに生まれた。1857年頃、風景画家ブーダンに出会い、戸外での油絵制作に取り組む。1874年、ピサロ、シスレー、ルノワールたちとともに展覧会を開催し、「印象・日の出」を出品した。当時、作品の公表の場ははとんどサロン(国による公募展)に限られていたが、彼らはアカデミスムの殿堂であるサロンで冷遇されていたため、自ら作品発表の場を作った。その後、団体展や個展が一般化していったことば、印象派以後の新しい潮流である。なお、「印象派」の名称は、この時のモネの作品名に由来している。

 絵具には、ある色を作り出そうとしていくつかの絵具を混ぜ合わせると、明るさが失われる性質がある。印象派の作家たちは、細かく小さな筆使いにより絵貝本来の色彩を生かす「筆触分割」と、離れて視たときにそれらが混ざり合った色に見える作用「視覚混合」により、自然界における光や大気等の変化による効果を表現した。

 「ポール=ドモワの洞窟」は、フランスのブルターニュ半島の南にある小さな島ペリール(「美しい島」という意味)の海岸を描いた作品である。モネは1886年の9月から11月にかけてこの地に滞在し、入り組んだ断崖と奇岩が海からそそり立つ風景を数多く描いた。この作品は、陽光降り注ぐ岩肌が太く斜めに入る筆致で表現され、浸食で生み出された洞窟の影とコントラストをなしている。また、青や緑の細かい筆触とアクセントとしてある波の白が、海の探さと穏やかさを伝え、空と岩壁、そして海面とが全体として大きな対比になっている。自然の光を巧みに表現した印象派の巨匠による40代半ばの作品である。

■モネ《ポール=ドモつの洞窟》について

 茨城県近代美術館の所蔵作品は、現在約4,000点を数える。当館は来年(2018年)開館30周年を迎えるが、その前身である茨城県立美術館が大洗の常陽明治記念館内に創設されたのが1947年(昭和22)のことなので、今年(2017年)は美術館創設から数えて70年ということになる。70年かけて築かれてきた当館のコレクションは、それらを通じて近代の日本美術史を概観できるほどに充実してきたが、その核となるのは、日本画の横山大観や小川芋銭、洋画の中村舜をはじめとする、茨城ゆかりの作家たちの作品である。移動美術館土浦会場では、それらゆかりの作家たちの中から洋画家たちの作品を時代順に構成して紹介している。

 西洋美術の作品収集においても、油彩画第1号であるルノワール《マドモワゼル・フランソワ》(1917年)は、上述の中村葬に影響を与えた画家というコンセプトで、1981年(昭和56)に購入された。このモネの《ポール=ドモワの洞窟≫(1886年)については、1988年(昭和63)の茨城県近代美術館開館に際し、記念展「モネとその仲間たち」を開催したことが契機となって購入へと至った。その後購入や寄贈により、当館の西洋美術コレクションは少しずつ増えていったものの、残念ながらその数は少ない。しかしそれらは粒ぞろいの良質な作品ばかりであり、その中でもとりわけ誇れる1点が、このモネの作品なのである。

 この作品が制作された1880年代半ば、モネは経済的にも安定し始め、1883年にはジヴェルニー(パリの北西約80キロ)に広大な敷地を持つ家を借りて移り住んでいた。後にここや隣接する土地を買い取って睡蓮の池を造営し、以後終生それをモティーフに作品を描くこととなるのだが、この地に居を定めてから6年ほどは、制作旅行のために家を空けることが多かった。1886年には、エトルタ(ノルマンディー地方)やオランダを訪れた後、初めてブルターニュ地方へ赴き、半島の南沿岸に位置する島ペリールに、9月12日から11月25日まで滞在する。

 ブルターニュ地方には今日でもケルト文化の影響が色濃く残るが、この当時、その独特の風物や素朴な人々の暮らしに惹かれ、多くの芸術家たちが訪れていた。さらに、作家のギュスターヴ・フローベールとマクシム・デュ・カンが1847年にブルターニュ地方を訪れた折の旅行記も、1886年初頭に改めて出版されており、そこに溢れるペリールについての魅力的な描写が、モネをこの地へ誘ったことも考えられる(実際モネはこの本を所有していた)。モネはペリールでのニケ月余の滞在で、当館所蔵のこの作品を含む39点もの油彩画を描いた。

 今日、ブルターニュ半島南部に突き出たキブロンの港からフェリーに乗ると45分ほどで行くことが出来、夏の間はリゾート地として多くの観光客が訪れる。島は、ル・パレ、ソゾン、ロクマリア、バンゴールという4つの地域(コミューン)により構成されている。島中央大陸側にあるル・バレは、キブロンからのフェリーが到着する主要港と17世紀に造られた要塞を核に、畠の経済・行政の中心として賑わう。西北部のソゾンは、島にもうひとつある小さいが美しい港や、19世紀の大女優サラ・ベルナールが別荘を構えたプーラン岬が魅力だ。高い崖と2キロにわたる砂浜という対照的な海岸線を持つ東南部のロクマリアは、アレクサンドル・デュマの『ダルタニヤン物語』三部作(『三銃士』『二十年後』『ブラジュロンヌ子爵(その一部に『鉄仮面』のエピソードが含まれる)』)の終盤で、三銃士のひとりであるボルトスが最期を遂げる場所としても知られている。そして中央部の大西洋側、バンゴールには、この畠独特の切り立った断崖と複雑な海岸線(「コート・ソヴァージュ(野生海岸)」と呼ばれる)の中でも、最も荒々しい場所がある。モネが滞在したのはこの地域であり、様々な表情を見せる断崖や海から突き出た奇岩をもっぱら描いた。

 9月12日にル・バレの港に着いたモネは、港の周囲はあまり絵にならないと判断し、15日にはコート・ソヴァージュ側に移っている。海岸から少し入ったケルヴィラウアンという、当時はわずか10数軒ほどの小さな集落に部屋を借り、そこから海岸へ出掛けては制作する日々が始まった。

 夏の間は青い海と陽光を浴びて輝く岩肌が美しいこの地であるが、モネが滞在したのは秋から冬へと移行する時期 のニケ月余りである。当館所蔵作品では晴れた穏やかな日の情景が描かれているものの、日が経つにつれ次第に天気 が悪くなり、嵐の日も多くなった。しかしその光景になお一層魅了されたモネは、天気と格闘しながら、荒波や風雨 がたたきつける崖や岩を描き続けた。この地でモネと出会い、後にモネの伝記も著したジャーナリストで美術批評家.のギュスターヴ・ジェフロワは、長靴を履きフード付きのレインコートに身をかため、風で飛ばされないようイーゼ ルを絶と石で縛り付けて描くモネの様子を伝えている。そうして描かれたペリールでの作品には、モネのそれまでの 作品であまり見られなかった自然の荒々しさや、自然に対する畏怖の念を感じさせるようなものもある。

  モネが描いた海岸は、ポール=コトンからポール=グルファルを経てポール=ドモワに至る断崖や奇岩群であるが、そ の中でも最も特異さが際立つのが、ポール=コトンの「ピラミッド」と呼ばれる針岩である。モネはこの岩をテーマに、 ほぼ同じ場所から捉えた6点を制作したが、そこでは天候や光の条件下で様々に変化する岩肌や海の色、波の表情等 が描き分けられている。これ以外の岩場についても、同様の手法を用いて、同じ場所を同じ構図で描いた作品がいく つもあり、ペリールでの制作には、後に展開される連作へと繋がる取り組みを見ることができる。ポール=ドモワでも 同様の試みで描いた一連の作品があるが、それらは当館所蔵作品とは異奉る位置から描かれており、この作品と同じ モティーフを同じ構図で描いたものは、他にはない。

 ところで、この作品に見られるような、高い位置に描かれた水平線や僻撤する構図、対象を途中で断ち切る描写(ここでは岩の上部および右側が切られている)などは、日本の浮世絵からの影響であることがしばしば言及されてい る。モネが活躍した時代、日本美術への関心が高まり、モネ自身も数多くの浮世絵を収集していた。「僻轍」や「断ち切 り」、「手前の遮蔽物をとおしての視点」等、浮世絵の構図から啓発を受け、モネは西洋絵画における伝統的な構図法= 遠近法による整然とした空間表現から脱却していった。そしてさらに対象となる要素を絞り込み(この作品では海と岩 肌)、それのみに集中接近した描写を発展させていく。その到達形といえるのが一連の睡蓮を描いた作品となるわけだ が、そこに到る描写や画面構成のスタイルも、ペリールでの滞在を含む1880年代後半を通じて形成されていった。

 モネがペリールに滞在した1886年には、1874年から始まった印象派展の最後となる第8回展が開催されたが、モネ は出品しなかった。そこで注目されたのは、スーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》で、印象派の筆触 分割(2頁参照)を「点描」という形でより科学的・体系的なものにしたその絵画は、「新印象派」と名付けられた。またこの 年は、ゴッホがパリにやってきて作風を転換させていく年であり、ゴーギャンがブルターニュ地方のボン=タヴェン を訪れ、後の「綜合主義」への端緒を開いた年でもある。そしてセザンラ=ま郷里のエクサン=プロヴァンスで隠遁生活 を送りながら、存在感のあるより構築的な様式を確立しようとしていた。つまり美術史の上で1886年は、「印象派」か ら「ポスト印象派」へと移行していくひとつの節目といえる。そしてモネにとっても、対象を諸条件下で描き分ける連/作の萌芽や、モティーフを絞り込んだ接近描写の模索など、新たな展開への揺藍の年であった。やがてそれは、《積み 藁≫(1888−89年)、《ポプラ並木≫(1891年)、《ルーアン大聖堂≫(1892−93年)等の連作を経て、ジヴェルニーにおける《睡 蓮》の膨大な作品群へと発展し、開花することになるのである。