ii 昭和戦前期の作家たち

■ii 昭和戦前期の作家たち

 昭和初期(1920年代後半)のパリには、芸術を学ぶ多くの日本人がいて、茨城ゆかりの作家たちの姿もあった。大正15(1926)年には熊岡美彦が、前年には渡辺浩三がパリに留学している。帰国後の渡辺は、妻の実家がある土浦で2年あまりを過ごした。他にも中村彝のアトリエで学んだ鈴木良三や、版画家の永瀬義郎などが渡仏している。

 この頃の県内洋画史を語る上で重要なのは、大正13(1924)年に水戸で結成された美術グループ「白牙会」の活動である。菊池五郎や林正三らが中心となり、斉藤勇太郎が会の運営に尽力した。白牙会は戦後まで計23回の展覧会を開催し、県内における洋画の振興に大きな足跡を残した。

 

 白牙会の第1回展では中村彝、熊岡美彦、辻永らが賛助出品した。白牙会展は、日仏芸術社から西洋画を借りて展示したり、公募展を開催したりするなど活動の幅を広げていく。昭和10年代には、東京で活躍していた郷土出身の画家榎戸庄衛や服部正一郎、小堀進などが新たに会員に加わった。

▶︎力一ニュ晩秋  昭和4(1929)年 熊岡 美彦 1889−1944

 熊岡は大正15年にフランスへ渡り、パリの美術館でマネやセザンヌなど西洋絵画の模写をして研究を行いながら制作に励んだ。本作品は秋が深まった南仏のカーニュを描いたものである。昭和4年に帰国した熊岡は、同6年に熊岡洋画研究所(のちに熊岡絵画道場)を開設し多くの画家たちを育てた。また、同7年には斎藤与里らと東光会を結成。同13年の茨城洋画展覧会の審査員をつとめるなど県内の洋画家たちの指導的な役割も果たした。

▶︎ブロドローム(球戯場)の門 昭和3(1928)年 渡辺 浩三 1897−1980

 秋田県出身の渡辺浩三は東京美術学校(現東京重大)を卒業した後、大正14年にフランスへ渡った。昭和2年、サロン・ドートンヌに「扇子を持てる女」(土浦市民ギャラリー所蔵)が入選、翌年も入選を果たした。滞欧期間中、各地を旅行して作品を制作した。同4年に帰国すると妻の実家がある土浦で2年あまりを過ごした

▶︎静物 昭和14(1939)年 渡辺 浩三 1897−1980

 昭和6年、土浦を離れた渡辺は、東京の駒沢町深沢にアトリエを新築してそこに移った。

 帰国後は二科展、続けて帝展に出品し、昭和9年には裸婦群像による構成画「室内」で帝展特選となった。また、前年の東光会第1回展から出品し、同9年会員。同10年に東光会が主催し、東京の熊岡絵画道場で開かれた洋画講習会の講師を務めている。同13年に茨城洋画展覧会が開かれて、辻永や熊岡美彦が審査員を勤めたが、この時に渡辺は無鑑査で出品した。

 戦後は昭和22年に日展審査員、同39年評議員となり、岡山大学教授(同31年)などもつとめた。

▶︎或るポーズ APose 昭和11(1956)年      菊池 五郎     1885−1950

 水戸に生まれた菊池は、東京美術学校(現東京藝大)で油彩画を学んだ。関東大震災後に水戸へ戻り、林正三らと白牙会を創立した。白牙会の事務所は菊池のアトリエに設けられ、多くの作家がここに集った。また、アトリエでは絵画指導を行い、そこから巣立った者の多くは美術教員の職に就いたり、自宅で絵画研究所を開いたりするなどして後進を育成していくことになる。

 菊池は亡くなる直前まで白牙会を支え、茨城県立美術館設立や県展開設などにも尽力した。

▶︎兄弟の像 Brother5 大正13(1924)年   林 正三 1893ー1947

 水戸出身。東京美術学校(現東京藝大)を卒業後、中学校の同窓生橘孝三郎が営む水戸の農場に暮らしていた林は、菊池五郎らと白牙会を創立した。「兄弟の像」は第1回白牙会屈への出品作とみられる。橘が関与した五・一五事件の後は、白牙会への出品はなく、制作状況はつまびらかではない。

 

 林はフランスの画家で大地に生きる農民を描いたジャン=フランソワ・ミレーの絵画に深く感銘し、その影響を受けた。農業に従事したことからも、仲間内では「水戸のミレー」になぞらえられた。

▶︎グラス風景 昭和6(1951)年 鈴木良三 1898−1996

 水戸に生まれた鈴木は、東京の医大に通っていたとき中村彝の知遇を得て、彝のアトリエを頻繁に訪れ画家を目指すようになった。白牙会には第1回展から出品し、第4回展からは会員として参加した。昭和3年、フランスに渡り、アカデミー・グランド・ショミエールに学び、同6年に帰国している。

 戦後は昭和24年に白牙会を退会して服部正一郎や栗原信らと「茨城洋画会」を結成したはか、日展でも活躍し、同34年日展会員となる。また、同46年中村彝会会長となり中村彝の顕彰に大きく貢献した。

▶︎花  昭和3(1928)年永瀬 義郎 1891−1978

 西茨城郡北那珂村(現桜川市)出身の永瀬は、自画・自刻・自摺による日本創作版画のパイオニアの1人として知られる。土浦中学校(現土浦一高)を卒業後、明治42年から白馬会洋画研究所で学んだ。大正8年に第1回日本創作版画協会展に出品し、会員として活躍した。また、白牙会会員としても活動している。

 昭和4年から7年間をフランスで過ごし、戦後も日展や光風会展で活躍するなど版画界の第一人者であった。

▶︎鯉  昭9(1934)年 服部 正一郎 1907-1995

 龍ヶ崎出身。大正14年に日本美術学校へ入学。昭和4年の第16回二科展で「庭」が初入選、同12年には会友、16年に会員となる。白牙会には小堀進や木内克らと同14年より参加し、戦後は同21年に二科会茨城支部を、同24年に鈴木良三らと「茨城洋画会」を結成した。昭和35年、日仏文化交流のため渡仏、サロン・ド・コンパレゾン、二科交換展に出品。同57年サロン・ドートンヌ会員。同62年、日本芸術院会員。戦後に始まる土浦市美術展覧会の開催にも尽力した。

▶︎九龍壁(北京) 昭和18(1943年 榎戸 庄衛 1908-1994

 榎戸庄衛は、明治41年に岩瀬(現桜川市)で生まれた衆議院の速記者の傍ら太平洋画会研究所で学び、昭和9年の第30回太平洋画会展で中村彝賞を受賞している。また、同8年には帝展に初入選、同17年新文展で特選となる。同年に創元会会員。

 

 戦後の第1回茨城県美術展以来、運営委員や審査委員を務めた。同24年に白牙会が一度解散をした際には、会の再建にあたった。また同年には「立軌会」を結成し、その後は抽象画の制作が中心となる。