Ⅳ 現代への多様な展開

■Ⅳ 現代への多様な展開

 戦後、それまでの美術の流れを受け継ぎながらも、新たな探求がなされたことにより、洋画 は多様な広がりをみせていった。なかでも、戦時体制下では統制されていた前衛美術としての 抽象画は、戦後に自由な創作活動を取り戻し、1950~60年代にかけて各々の様式を確立して いった。また、戦前はフランスをはじめヨーロッパに学んだ画家たちが多かったが、戦後は新 たな美術の中心となったアメリカなどで学ぶ作家たちの姿があった。

 県内では東京藝術大学(取手市)や筑波大学(つくば市)で美術を専門的に学ぶことができ、茨 城大学(水戸市)では美術系教員の養成が行われている。多方面で活躍する教員と、そこに育っ た若手アーティストらの活動は、地域における芸術文化活動にも刺激を与えている。

 戦前に白牙会を創立した菊池五郎は、昭和22年、大洗の常陽明治記念館内に茨城県立美術館 が開館するにあたり、準備段階から尽力した。その後、移転と改称を経て、同63年に開館した のが「茨城県近代美術館」である。美術館におけるコレクションの収集と公開を通して、茨城の 洋画家たちに光をあて続けてきたことも、多様な展開を生み出してきたひとつの背景といえよ う。

▶︎ゴンドラの見える街  昭和44(1969)年 塙 賢三 1916-1986

 土浦に生まれた塙 賢三は、昭和18年に洋画家福田義之助(1890-1959、 土浦出身)と出会い、油彩画の手ほどきを受けた。

 敗戦を機として本格的に絵を描き始め、昭和21年には二科展に初入選、 同37年には会員となり、その後審査員や理事などをつとめた。また、同 42年にはパリのサロン・ドートンヌに招待出品。

▶︎マジシャン(魔術師)昭和37(1982~1985・加筆)年 塙 賢三 1916-1986

 初め風景画を描いていた塙賢三は、写実では心情を表現できないとして抽象画を描くようになり、やがて童画的詩情を漂わせた独特な作品を制作していった。

 塙の作品には、ピエロをモチーフとしたものが多い。自らを「童心表現感覚派」 と評したように、素朴な画面の中に明るい理知とユーモア、哀愁を混淆させた独特の叙情的世界を表現している。

▶︎余歷 昭和55(1980)年 堀越 隆次 1916~1984

 堀越隆次は、大正5年に土浦で生まれた土浦中学校(現土浦一高)を経て、昭和14年に東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業。名古屋市の日本陶器(現ノリタケ)に勤務。洋画は服部正一郎に学んだ。兵役についたが、昭和18年に満州から帰国。同年の二科展で初入選。戦後も同会で活躍し、同39年会員、54年評議員、79年監事、社会の矛盾に耐えて生きる人々の生活に深いまなざしを注ぐ作品を残した。

▶︎小貝川 昭和43(1968)年 西田 亨 1920−2015

 岡山県で生まれる。昭和16年、東京美術学校(現東京藝大)図画師範科を卒業。昭和24年、光風会展で初入選。その後、光風会会友、会員、幹事などとして活躍。本作「小貝川」は同43年の第11回新日展で特選となる。その後、日展委嘱、審査員、会員。同46年に茨城大学教授、60年に退官。茨城県立県民文化センターで茨城大学退官記念展が開かれた。

▶︎RainbowLandscapelRainbowVoIcano 昭和49(1974)年  靉 嘔 1931~

 行方郡小高村(現行方市)に生まれる昭和29年に東京教育大学(現筑波大学芸術学科卒業同33年に渡米。同41年にヴェネチア・ビエンナーレに日本代表の一人として出品、虹の作家として国内外に知られる

 シルクスクリーン(版画の一種)である本作品は、レインボー・ランドスケープと題された5点組のうちのひとつである。

▶︎夜のカーニパル(リオ)昭和37(1982)年 角 浩 1909−1994

 日立出身?。東京美術学校(東京藝大)在学中の昭和7年に第2回独立展へ出品。同8年同校を卒業。藤島武二、岡田三郎助に師事。昭和11年に文展入選。翌年にフランスへ渡り、アカデミー・コラロッシ、グランド・ショミエールに学ぶ。サロン・ドートンヌ等に出品し、同14年に帰国。戦後、同25年より新制作派協会展に出品、同28年会員。

 昭和30年代にアメリカに渡り、以後、ヨーロッパや南米、アジア諸国を歴訪。ギリシャ神話やドンキホーテ、サーカスなどを主題に幻想的な画風を示した。

▶︎叢岩 平成3(1991)年 山本 文彦   1937~

 東京都、中野区に生まれる昭和31年に東京教育大学(現筑波大学)芸術学科に入学。同33年に二紀会展に初入選。その後、二紀会同人、審査員、同62年より常任理事。山口大学教育学部講師、助教授を経て、昭和52年から筑波大学助教授、のちに教授となる。平成22年、日本芸術院会員。