美術評論

■大阪万博と前衛芸術の関係

暮沢剛巳(くれさわたくみ)と江藤光紀(えとうみつのり)

 大阪万博は正式名称を日本万国博覧会といい、日本で開催された初の万国博覧会である。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、大阪府吹田市の千里丘陵を舞台として開催されたこの万博には77カ国と4つの国際機関が参加し、約350ヘクタールの会場敷地には多くのパビリオンが林立し、1970年3月14日から9月13日の183日間にわたる会期を通じて約6,420万人を動員(この動員数は、約7,300万人の動員を記録した2010年の上海万博に追い抜かれるまで、長らく最高記録を保っていた)するなど、未曽有の国家事業と呼ぶにふさわしい規模を誇っていた。

 この記録的な成功を理解するにあたっては、国際的な文脈と国内の文脈の双方を念頭に置く必要があるだろう。まず国際的な文脈としては、1950―60年代の万博ブームが挙げられる。具体的には、58年のブリュッセル万博、64―65年のニューヨーク万博、67年のモントリオール万博などである。70年に開催された大阪万博は、日本はもちろんアジア初の万博だけでなく、当時のブームの締めくくりに位置する万博でもあった。以後万博の開催は長らく途絶え、次は米ソ冷戦構造が終焉を迎えた92年のセビリア万博を待たなければならない。

 一方、国内の文脈としては、当時の時勢はもちろん、日本では長らく万博開催が待望されてきたことを視野に入れる必要がある。欧米諸国が万博ブームを迎えていた1950―60年代、戦後復興を遂げた日本社会は神武景気(日本の高度経済成長のはじまりの1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称)、岩戸景気(日本の経済史上で1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称である)、いざなぎ景気などの長期にわたる好景気に沸き、人々は繁栄を謳歌していた。日本がアメリカに次いでGNP(国民総生産。現在のGDP〔国内総生産〕)世界第2位に躍り出た70年に開催された大阪万博は、一足早く64年に開催された東京オリンピックと並んで、高度成長期と呼ばれた当時の時勢を象徴する国家事業だったのである。拙著でも検討したことがあるが、日本では明治新政府の成立以後、1873年のウィーン万博を皮切りに主要な博覧会に参加する一方、多くの関係者が日本での万博開催を悲願としてきたものの、何度か浮上したその計画がいずれも財力不足などの原因によって頓挫してきた歴史的経緯がある。とりわけ、1940年に開催が計画されていた「紀元二六〇〇年博」は、正式名称を紀元二六〇〇年記念日本万国博覧会といい、また「東西文化の融合」をテーマに掲げるなど、大阪万博との共通点が少なくなかった。いわば100年来の悲願が実現された大阪万博には、これらの従前の構想の遺伝子も少なからず流入しているといっていいだろう。

 さて、大阪万博の概略はほどほどにして、本題に入っていくことにしよう。われわれがここで焦点を合わせてみたいのは、大阪万博での前衛芸術の問題である。


よく知られているように、前衛とはフランス語の avant-garde や英語の vanguard の翻訳概念である。もともとは前線で敵軍との交戦や偵察をおこなう部隊を意味する軍事用語だったこの言葉は、やがて階級闘争や文化闘争の最前線を担う指導者やそれに対応した芸術運動という意味をもつようになり、さらに政治的な党派とは無関係に実験的な芸術表現を指すようになった。20世紀前半の抽象絵画やシュールレアリスムの展開は前衛と不可分の関係にあるし、またアメリカの美術評論家クレメント・グリーンバーグが1939年に発表した論文「アヴァンギャルドとキッチュ」で、前衛に俗悪な大衆文化に対する防波堤としての役割を負わせる議論を展開したことも重要である。

 日本でも明治近代以降、欧米のさまざまな美術運動が移入・紹介され、その影響を受ける形で多くの美術団体が離合集散を繰り返し、その過程を通じて前衛という概念も浸透していった。大正期新興美術運動はそのあと大正アバンギャルドとも称されるようになり、また第2次世界大戦後へと目を転じれば、1940年代末期の「夜の会」周辺の活動、50年代の具体美術協会や実験工房などの団体の活動、60年代のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズやハイレッド・センター周辺の「反芸術」、そして70年前後の「人間と物質展」などを舞台にしたもの派の活動などが強いインパクトを残す。これらの動向は、それぞれの時代を代表する前衛としてすでに歴史化されているといっていい。

 説明するまでもないが、それぞれの時代で前衛の主軸を担っていたのは、まだ当時は無名だった若手のアーティストたちである。最高裁判所まで争われた赤瀬川原平の「千円札裁判」などが典型的だが、彼らの活動は風紀を乱す反社会的なものとして批判されることも少なくなかったし、叙勲や受章などとも無縁だった。そうした社会的な栄誉に浴するのは、保守的な美術団体に所属する美術家たちに限られていたのである。そうした経緯を踏まえれば、挑発的・反体制的なイメージが強い前衛と、政府が多額の予算を計上し多くの国や大企業が参加して開催される万博という晴れがましい祭典との結び付きに、強い違和感を覚える者も少なくないだろう。ところが大阪万博では、多くの前衛アーティストたちが大活躍し、会場内の多くのパビリオンや公共スペースは、大掛かりな野外彫刻、機械仕掛けの美術作品、工場に発注して作られる美術作品などで埋め尽くされることになった。当時の美術の制度になじまなかったため、公の美術館などでの発表の機会は限られてしまい、路上などでのゲリラ的な作品発表に活路を見いださざるをえなかった前衛アーティストたちが、国家や大企業の庇護の下に活躍の場を与えられたという点でも、大阪万博は画期的な性格をもっていたのである。

 史上初の万博とされる1851年のロンドン万博以来、万博は参加した多くの国や企業がそれぞれ自らの製品の優れた技術力を誇示するショーウィンドーとしての側面を持ち続けている。1970年当時はしばしば「環境芸術」と呼ばれたが、写真、映像、音響、照明、機械などを多用する前衛芸術の表現手法は、そうした万博の側面と相性がよく、それがアーティストたちの活躍につながったことは確かだろう。しかしそれだけでは、大阪万博での前衛芸術の多様な展開は到底説明できるものではなく、さらに子細に検討する必要がある。

 大阪万博と前衛芸術の関係について詳述した重要な先行研究として、まず挙げなければならないのが、美術評論家の椹木野衣(さわらぎ のい、1962年7月1日 – )が2005年に出版した『戦争と万博』である。同書で椹木はいくつか重要な問題を提起しているが、ここでは二点に絞って取り上げておこう。

 まずひとつが、先に挙げた「紀元二六〇〇年博」との関係である。椹木は「大阪万博は、日本国にとって二重の意味で象徴的な意義を持っていた。ひとつは、それが明治維新によって近代化を果たして以来、百年の計を総括する意味を持っていたということ(=近代化は成功であった、と明示すること)。第二に、紀元二六〇〇年博に挫折した万国博を「復興」することによって「敗戦」の事実を帳消しにすること(戦前の帝国主義の栄光は回復された、と言明すること)、以上の二点である」(3)と述べ、大阪万博が1940年の紀元二六〇〇年博の延長線上に位置づけられることを指摘している。確かに、メイン会場であるお祭り広場の大屋根をはじめ、大阪万博のデザインを主導した丹下健三らが戦時中の「大東亜建設忠霊神域計画」に参加していたこと、万博事務局に旧満州国の行政スタッフが採用されていたこと、元陸軍憲兵大尉の甘粕正彦が理事長を務めていた満州映画協会(満映)がおこなった映像実験が大阪万博にも大きな影響を及ぼしていることなど、両者の間には強い相関関係が見てとれる。大阪万博の開催にあたっては、中止が決定される前に売り出されていた紀元二六〇〇年博の入場券がそのまま使用できることが発表され、実際に約3,000枚の入場券が使用されたという逸話もあるほどだ。

 もうひとつが、「環境」という概念の重要性である。万博で展示された前衛芸術が当時はしばしば「環境芸術」と称されていたことはすでに述べたとおりだが、椹木はいくつかの事例を挙げて、当時環境という言葉が現在のエコロジー的なニュアンスとは大きく異なる意味合いで用いられていたことを指摘している。例えば、建築家の浅田孝が大阪万博の前年(1969年)に出版した『環境開発論』(〔SD選書〕、鹿島研究所出版会)では、敗戦直後の広島で救助活動に携わったという著者の経験が強く反映され、環境という概念が「復興」や「開発」とほぼ同じ意味で言及されていることや、一方デザイナーの粟津潔が提唱した「エンバイラメント」が「実験」とほぼ同じ意味合いで用いられていることがそれに該当する。浅田と粟津はどちらも60年代の日本で展開された建築・デザイン運動であるメタボリズムのメンバーだったし、また粟津から「エンバイラメント」の概念を継承した磯崎新はネオ・ダダと近い関係にある建築家であり、その磯崎が中心になって大阪万博の展示計画を構想した日本万国博イベント調査委員会には、実験工房の中心メンバーだった武満徹や山口勝弘らも参加していた。以上のように、「環境」というキーワードひとつとってみても、大阪万博には戦後日本の前衛芸術を担っていた諸分野のアーティストが深くかかわっていたことがわかる。椹木は万博を舞台に展開された前衛芸術のさまざまな実験を「万博芸術」と総称しているが、確かに当時の「環境芸術」は、いまならばそう称するのがもっともふさわしいように思われる。

 もっとも、万博開催の当時から「万博芸術」などという問題意識が共有されていたわけではない。当時の美術評論家の言説を追っていくと、例えば針生一郎は万博開催の前年、大阪万博に「明治百年」のキャンペーンに象徴される大国ナショナリズムや70年安保の矛先そらしを指摘し、また多木浩二も「ブルジョワイデオロギーによる文化の再編と強化をもくろんだもの」として批判していた。針生も多木も前衛の側に立って陣を張った論客だが、少なくともこれらの批判に大阪万博と前衛芸術の相関関係を見いだすような視点は認められない。彼らの言説は、大阪万博が体制側の仕組んだ祭典であり、反体制的な前衛とは相いれない関係にあるという図式の下に成立していたのである。特に運動家でもあった針生の共感は、明らかに反万博運動のほうに寄せられていた(当時の前衛芸術、特に路上で展開されたゲリラ的な活動が、「ハンパク」などに称された反万博運動とも密接に連なっていたことは確かであり、それについては別途検討の必要があるだろう)。

 大阪万博の「環境芸術」展示機械文明から情報文明への移行の契機を指摘した岡田隆彦のような事例もないわけではないが、米ソ冷戦構造や高度成長期という時代の枠組みに規定された当時の言説は、おおむね大阪万博を前衛とは縁遠い体制側の祭典とみなしていたといっていい。「万博芸術」が前衛芸術だとの理解が成立するには、当の前衛が長い時間の経過によって歴史化されなければならなかったのである。晩年は「爆発おじさん」としてほとんどイロモノ扱いされ、夜の会など戦後の前衛芸術に深くかかわっていたことを忘れ去られていた『太陽の塔』の作者岡本太郎が、死後になって多くの関連書籍が出版され、展覧会が企画されるなど、目覚ましい再評価が進んでいるのはその何よりの事例だろう。

 『戦争と万博』ではほかにもいくつか重要な問題が指摘されていて、この連載でも折にふれて参照することになるだろう。しかし、この連載では同書をはじめとした先行研究に依拠するばかりではなく、従来にはなかった視点に基づいて万博と前衛芸術の関係に踏み込んでみたいと考えている。それは主としてふたつの方向性に集約される。

 ひとつはその国際的文脈である。すでに述べたように、大阪万博は1950―60年代の万博ブームの最後を飾った万博でもあり、その展示構想は58年のブリュッセル万博や67年のモントリオール万博からも大きな影響を受けている。この連載のテーマでもある前衛芸術についてもその点では決して例外ではありえない。そのためこの連載にあたっては、ブリュッセルやモントリオールで現地取材をおこなうほか、パリに所在する博覧会国際事務局(BIE)が所蔵する多くの資料を検討し、その成果を反映することにした。当然、検討の対象にするアーティストも日本人だけに限らない。

 もうひとつは、総合芸術としての「万博芸術」の検討である。大阪万博に多くのアーティストが参加していたことはすでに述べたとおりだが、その共同は極めて総合芸術的な性格をもつものでもあった。その検討もまたこの連載の大きな目的である。この連載が、美術・デザインを主な対象領域にする暮沢と、音楽を主な対象領域にする江藤の共同で企画された最大の理由もそこにある。

 以下、次回以降の連載計画について大まかに述べておこう。
第1回の「万博計画の時代背景」では、当時の社会の「光」と「影」の同時代性を考察する。大阪万博が高度成長の輝かしい一面を象徴する一方で、安保紛争やベトナム戦争をめぐる反戦運動が活発化し、また各地で頻発する公害問題は世相に暗い影を投げかけていた。万博の余韻も冷めやらぬ同年11月に起こった三島由紀夫の割腹自殺は、日本人としての精神の連続性とアメリカ型戦後民主主義のはざまに起こった亀裂を、自らの身体上にシンボリックに刻んだ事件だったともいえるだろう。こうした背景を踏まえ、大阪万博の開催が決定された経緯、1940年の「幻の万博」との連続性や64年の東京オリンピックとの対照、そしてそのなかに認められる前衛芸術との接点などについて論じる。

 第2回の「原子力と未来都市」では、万博と原子力エネルギーの関係に焦点を当てる。かねてから原子力は化石燃料にかわる新たなエネルギー源として注目されていたが、その可能性に本格的にスポットが当てられた1958年のブリュッセル万博では、メイン会場にアトミウムという原子模型をモデルにしたシンボルタワーが建設され、また日本も科学技術庁が当時茨城県東海村で進められていた原子力開発を紹介する展示をおこなっていた。それに呼応するかのように、60年代には日本でも多くの原子力発電所の建設が進められていくが、広島と長崎に原爆が投下され、また戦後にも第五福竜丸が被爆した過去がある日本では原発への抵抗が根強く、多くの反対運動が展開された。ここでは、岡本太郎の『太陽の塔』をはじめとするいくつかの展示を例にとり、大阪万博ではいかにして原子力エネルギーの展示が追求されたのかを考えてみたい。合わせて、当時の反核・反原発運動にも目を配り、「3.11」にまで連なるその問題意識も一瞥してみたいと思う。

 第3回の「サウンド・スカルプチャーの具現化」では、主に大阪万博での音響展示が分析の対象である。当時のパビリオンとして唯一現存し、現在は万博資料館として活用されている鉄鋼館では、武満徹のプロデュースによって期間中多くの実験的なイベントが展開され、またカールハインツ・シュトックハウゼンが参加したドイツ館でも著名な作曲家による音響実験が繰り返された。万博での音響実験は、恐らく1958年のブリュッセル万博でのフィリップス館(ル・コルビュジエ設計)でのエドガー・ヴァレーズの実験にまでさかのぼって考えることができるもので、ここではその意義を考察してみたい。


 第4回の「サブカルチャー的想像力」は、大阪万博とサブカルチャーの関係に焦点を当てる。大阪万博は開催当時多くの子どもたちの関心を呼び、多くの児童向け雑誌で特集が組まれた。また会期終了後も関心は衰えることなく、大阪万博を題材にした小説、マンガ、映画、テレビドラマなどは枚挙に遑がない。この万博を機に日本に定着した科学技術や食文化も少なくない。ここでは、2人の著者がそれぞれの関心に応じる形で、大阪万博にインスパイアされたサブカルチャーの事例をさまざまな角度から検証していく。

 第5回の「東と西(1)」では、国別パビリオンのなかからアメリカ館を取り上げる。アメリカ館というと、前年に人類初の有人月面着陸を実現したアポロ11号が持ち帰った月の石の展示が名高いが、そのパビリオンの展示にはロバート・ラウシェンバーグやクレス・オルデンバーグといった当時の先端に位置する前衛アーティストたちも参加していた。ここでは、グリーンバーグおよびそれ以降の前衛概念を念頭に置きながら、アメリカ館の展示を当時のアメリカ美術の文脈から考えていく。

 第6回の「東と西(2)」は、国別パビリオンのなかからソ連館を取り上げる。ソ連館は、大阪万博でも最大の入場者数を誇った屈指の人気パビリオンであり、アメリカの月の石に対抗するかのような宇宙船の展示や、レーニンの生誕100周年を記念した展示が大きな話題を呼んだ。ここでは、冷戦構造を背景にした東西比較などの観点も交えてソ連館の展示を検討し、前衛に対するプロパガンダとしての文化というあり方について考える。

 第7回の「音と映像の競演」では、ペプシ館の展示を検討する。企業パビリオンのなかでも、「オープン・エンド」というテーマを掲げたペプシ館の展示は出色で、ビリー・クルーヴァーを中心とするE.A.T.(Experiments in art and technology)や中谷芙二子らの展示が異彩を放っていた。クルーヴァーや中谷は今日でいうメディアアートの先駆的存在であり、ここでもその観点から考えてみたい。その検討対象には、同じく映像実験を前面に押し出したせんい館との比較や、大がかりな映像プロジェクトが展開された先例である1967年のモントリオール万博との比較なども含まれている。

 第8回の「前衛と伝統のアマルガム」は、第3回とはまた違った角度から大阪万博の音響展示を考察する試みである。アバンギャルドとはヨーロッパの芸術文化が育んだ歴史意識の下に成立したものだが、戦後にアメリカに現れる実験音楽の流れは、欧州型の歴史観とは異質な問題意識から出発している。これはまず一柳慧によって日本に本格的に紹介された。本章では三井館の音響デザインをはじめ、さまざまな形で万博にかかわった一柳、またのちにアメリカで教鞭を執ることにもなる湯浅譲二の電子音楽作品などを紹介する。また一方で、黛敏郎や松村禎三は復古風のカンタータ的作品や、アジア的想像力を思わせる作品を寄せていて、こうした多様性は当時の日本現代音楽のひとつの縮図を作っているといえるだろう。

 第9回の「メタボリズムと具体美術協会」は、1950―60年代の日本で展開された芸術運動と大阪万博の関係に焦点を当てる。60年の世界デザイン会議を機に結成されたメタボリズムと、50年代に関西を主舞台に活動を展開した具体美術協会は、いずれも当時すでに芸術運動としてのピークを過ぎていた印象が強いが、大阪万博では往時をしのばせる盛り上がりを見せ、いわばこの祭典を最後の花道にして歴史の後景に退いていった。大阪万博から40年以上が経過した現在、その歴史的な意義をあらためて再考してみたい。

 もちろん、この第9章で検討しうるのは、大阪万博の多様な展開のごく一部に過ぎず、ほかにも取り上げるべき事例や検討すべき問題は少なくないことは十分に自覚しているつもりである。そのため、この第9章はあくまでも暫定案であり、今後の研究の進展に伴って、われわれの問題意識に対応する形で大きく変わっていく可能性があることを断っておきたい。

*この連載は、2011―13年にまたがって実施される科学研究費プロジェクト「大阪万博における前衛芸術――考察と国際比較」に基づくものである。


(1)暮沢剛巳『美術館の政治学』(青弓社ライブラリー、青弓社、2007年、35―37ページ。なおこの議論は古川隆久『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』(〔中公新書〕、中央公論社、1998年)を踏まえたものである。

(2)足立元『前衛の遺伝子――アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012年)によると「日本において、尖鋭的・革新的な芸術表現の呼び名として、「新興」もしくは「先鋭」に取って代わって、「前衛」ないし「アヴァンギャルド」という言葉が定着したのは、ようやく1930年代に入ってからであった」(同書173ページ)という。

(3)椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年、148ページ

(4)針生一郎編『われわれにとって万博とはなにか』田畠書店、1969年

(5)多木浩二「万博反対論――デザインにおける人間回復をめざす」「展望」1969年1月号、筑摩書房、172―177ページ

(6)岡田隆彦「移行する物神――EXPO’70に生命化されるもの」、前掲書『われわれにとって万博とはなにか』所収