万博と原子力

■アトミウムから「太陽の塔」へ

 2011年月初旬、私はベルギーのブリュッセルにいた。本章での議論をはじめとする複数の調査を目的とした旅行の途中で立ち寄ったのである。到着翌日の夕方近く、私は路面電車に乗って市北部のエゼル公園を目指した。当初はビルばかりが映っていた車窓の風景も、郊外の目的地が近づくにつれて次第に緑が濃くなっていく。出発から十数分後、ほかとは見聞違えようもない独特のシルエットが視界に入ったのを確認し、私は目的地が近づいたのを理解した。その名はアトミウム約半世紀前にブリュッセル万博のシンボルタワーとして建設され、会期終了後も恒久保存され、現在も観光客に向けて広く公開されている鉄骨の構造物である。

 一九五八年に開催されたブリュッセル万博は、第二次世界大戦後初めて開催された本格的な万国博覧会(第一種総合博)である。四月十七日から九月十九日の約半年間の会期にわたって開催されたこの万博には四十二カ国と十の国際機関が参加し、約四千百二十五万人が来場した。いうまでもなく、この数値は開催時点での万博史上最高の動員記録を示すものだった。「万博の時代は終わった」といわれながらも、当時はまだまだ多くの人々の間で万博の開催が強く待望されていたのである。

 ベルギーは意外にも万博とはなじみが深く、これ以前に五回もの万博が開催されている(念のために記して吉ば、ブリュッセルで万博が開催されたのは一八九七年、1910年、三五年に次いでこのときで四回目、はかに2005年にはリエージュで、また2013年にはゲントで開催されたことがある。最近でも、カザフスタンのアスタナに敗れたとはいえ、リュージュが2017年に開催予定の地方博の招致を目指していた。この万博が、そうした過去の開催実績を踏まえた集大成的な意味をもっていたことは疑うべくもない。また当時のベルギーは、第二次世界大戦の後遺症もあってか、一時期はヨーロッパでも最高水準を誇っていた国民一人あたりのGDPが北欧諸国に抜かれて五位に転落していたことから国内経済の立て直しが急務であり、言語政策や教育政策いった観点でも複雑な問題を抱えていた。この万博には、そうした膠着状態の突破口としての役割も期待されていたのである。

 一方でこの万博は、斬新な前衛芸術の発表の場になつたことでも知られている。多くの実験的な試みのなかで現在最も高名なのは、エドガー・ヴアレーズの前衛音楽の発表の場としてル・コルビュジェがイアニス・クセナキスと共同で設計したフィリップスの企業パビリオンだが、ほかにも参加各国や企業はそれぞれのパビリオンで趣向を凝らした展示を行ない(当時の様子の一等アトミウム内の展示で見ることができる)、またキュビスム、未来派、シュルレアリスムなど二十世紀前半の美術の流れを俯瞰した「モダンアートの五十年」という展覧会開催されていた。だがこの万博を最も端的に象徴する施設いえば、やはり銀色の威容を誇るアトミウムをおいてはかにないだ ろう。

 アトミウムは、九つの球体を組み合わせた建築物である。巨大な原子模型のようなその姿は、鉄の結晶構造を千六百五十億倍に拡大したものだという。最高点は百二メートルにも達し、最上部の球体からはブリュッセルの市街地を一望できる。週末ともなれば多くの観光客でにぎわい、世界的に見ても、万博のシンボルとして建設された建物としては、おそらく現在でもエッフェル塔に次ぐ人気と知名度を誇っているはずだ。

 この施設を設計したのは、地元出身の建築家アンドレ・ワーテルケインだった。当初はエッフェル塔を逆さにしたデザインも検討されたが、最新の技術を象徴するのによりふさわしいデザインを検討した結果、格子模型の形に落ち着いたという。いうまでもなく、その判断には原子力開発への強い期待感も反映されていたのである。

 原子力エネルギーは二十世紀最大の発見・発明の一つといっていいだろう。相対性理論に代表される量子力学の飛躍的な発展は、核反応によって生み出される巨大なエネルギーの存在を暗示するものであり、それは1938年に核分裂の発見という形で現実になつた。だが不幸なことに、原子爆弾や原子力潜水艦など、この新しいエネルギーは初期段階ではもっぱら軍事目的のために開発が進められた。1951年に史上初めておこなわれた原子力発電の実験では、二百ワット電球四個を発光させるのがやっとというありさまで、民生目的での開発の立ち遅れは否めなかった

 ところが、一九五三年十二月にアメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領が国連総会で「atom for peace」を提唱し、民生転用への道が開かれて以降、原子力発電の研究が急ピッチで進められていく。当時アメリカはソ連との熾烈な水素爆弾開発競争の渦中にあったが、あわせて原子力発電の研究にも本格的に着手し、また欧州共同体(EEC/現EU)でも五七年には欧州原子力共同体(ユートラム)や国際原子力機関(IAEA)が結成されるなぞ、原子力開発は先進国共通の大きな関心事になりつつあった。石油や石炭などの化石燃料の資源枯渇や二酸化炭素による大気汚染などが不安視され始めていた当時、わずかな資源で大量の電力を供給することが可能な原子力発電はそれに代わる「夢のエネルギー」としてにわかに注目を集めるようになったのである。

 1958年に開催されたブリュッセル万博には、原子力への大きな期待にあふれていた当時の時勢が強く反映されていた。シンボルタワーであるアトミウムが原子力エネルギーのメタファーであることはすでに述べたとおりだが、ほかにもアメリカ館では当時開発中だった原子炉の模型や写真が展示され、またフランス館やイギリス館でも原子力エネルギーに向けた将来のビジョンが紹介されるなど、先進各国は原子力の展示にこぞってスペースを割いていた。

 だが、この万博で最も大規模な原子力関係の展示といえば、「国際科学館」でのソ連の宇宙船スプートニク号だろう。これは、ソ連が前年に人類史上初の無人人工衛星の打ち上げを成功させたばかりだった自国の科学力を誇示することを主目的としたものであり、加えて第二次世界大戦末期の原爆投下や太平洋上の水爆実験など、原子力を軍事目的で利用していたイメージが強かったアメリカとの対比で、原子力の平和利用をアピールする狙いもあった。そもそもこの「国際科学館」での宇宙船の展示自体が、内紛が原因で展示規模の縮小を余儀なくされたアメリカのスペースを「占有」する形でおこなわれたものだった。米ソ冷戦構造の図式が、万博の展示にもそのまま持ち込まれていたのである。

 ところで、ブリュッセル万博に参加した四十二カ国のなかには、サンフランシスコ講和会議を機に国際社会に復帰した日本も含まれていた。この万博の日本館パビリオンは「日本人の手と機械」をテーマとした展示をおこない、内装を担当した剣持勇のモダンデザインや日立の電子顕微鏡がグランプリを苦した。苦の日本館の展示といえば、伝統的な工芸品などを通じてオリエンタリズムに訴えるのが常套だったが、戦後初となるこの万博では最新の技術力を誇示するべく方針の転換を図ったのである。ブリュッセル万博「科学文明とヒューマニズム」を全体テーマとして掲げていたから、日本館の展示はそれに沿ったものとも考えることができるが、戦後の国際社会への本格的な復帰の一歩として、工業立国の方針を示そうとしたことは確かだろう。

 一方でこの万博では、外務省が主導する日本館の展示とは別に、科学技術庁もアトミウムのなかに小さなブースを出展していた。そこでは、前年に茨城県東海村に望されたばかりの東海研究所やそこで初めて臨界した原子炉JRR-l、戦争による中断を経て研究開発が再開された小型サイクロトロン(荷電粒子加速装置)などが紹介され、「夢のエネルギー」への強い期待感が表明されていた。欧米先進諸国と同様、日本もまた万博という晴れがましい場で原子力という「夢のエネルギー」への強い期待を表明していたのである。

 もっとも、原子力をめぐる国内の情勢は必ずしも一枚岩ではなかった。確かに化石資源に乏しい日本にとって、学力がそれに代わりうる魅力的なエネルギー源であることは疑いなかったし、また原子力政策を積極的に推進しようとするアメリカに対して、当時の日本が、少なくとも政府レベルで異を唱えられる立場ではなかったことは確かである。とはいえ、第二次世界大戦の末期に広島と長崎に相次いで原爆が投下されて多数の死傷者が発生し、また戦争後の1954年にも第五福竜丸が太平洋上でアメリカの水爆実験によって被曝するなど、核の惨禍をいくど経験した日本人原子力の導入を無批判に歓迎したとも考えにくい

 事実、五四年には核の恐怖をテーマとした怪獣映画『ゴジラ』(監督‥本多猪四郎/円谷英二、配給‥東宝)が大ヒットを記録し、翌五五年にはその後長らく反核運動の拠点となる原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成されるなど、反核の胎動は当時確実に存在していた。はたして、このような状況下でどのようにして日本への原子力の導入が図られたのだろうか。

 アイゼンハワーが「Atom for Peace」を唱えたとき、そこに原子力の平和利用という本来の目的に加え、広島と長崎の惨禍の隠蔽という意図が潜んでいたことは明白だった。その意味では、「Atom for Peace」には対日戦略としての側面も潜んでいたわけだが、そうしたアメリカ側の意向に沿う形で、国内で原子力の平和イメージを訴える役割を積極的に引き受ける人物が日本側にも存在した。誰あろう、時の読売新聞社社主正力松太郎がその人だ。高度成長期に、自社メディアを通じて原発の導入を積極的に推進した正力はしばしば「原発の父」とも呼ばれるが、近年のアメリカでの公文書の調査によって、現在ではその言動の多くがCIA(中央情報局)の対日工作への協力であったことが明らかになりつつある。

  原子力エネルギーが生み出すバラ色の未来が多くの大衆を魅了した。広島や長崎の核の惨禍は当時まだ生々しかったが、いうなればこの博覧会は、原爆に象徴される「核」のネガティブなイメージから、「夢のエネルギー」としての原子力の可能性を分離し、別個のものとして提示することに成功したのである。この博覧会がアメリカの強い意向を受けてのものだったことは、「アメリカ側の絶大なる指導と協力」を強調する正力の開会式のスピーチからも明らかだ。吉見俊哉は、各地を巡回したこの博覧会が、朝日新聞社や中日新聞社など地域によっては読売新聞社以外の新聞社によっても主催されていた事実に注目し、「原子力の夢」が短期間のうちに日本全国に浸透したことを指摘している。五四年三月十六日付の朝刊で、他紙に先駆けて第五福竜丸の被曝を伝えた「読売新聞」の第一報は、戦後のジャーナリズム史上にいまなお燦然と輝く世界的な大スクープである。しかし当の「読売新聞」は、そのわずか一年後には、日本国民に対して原子力の輝かしい未来のイメージを振りまく役割を果たしていくことになる。五八年、日本から遠く離れたブリュッセルの万博会場でおこなわれた小さな原子力展示も、明らかにその延長線上にあった。

 こうして、アメリカの対日工作などを経て受け入れ態勢が撃えられたのを機に、全国各地で原子力発電所の建設が推進されていく。一九五九年にいち早く建設が認可された東海発電所が営業運転を開始したのは1966年のことだ2011年の震災で甚大な被害を出した福島第一原発も、1967年には一号炉の建設が開始されている。また1963年には、「Atom for Peace」の日本的象徴とも呼ぶべき連携テレビアニメ鉄腕アトムフジテレビ系、1963−66年)の放映も開始され、子供たちに大人気を博したが、その妄で原水協と原水禁の分裂や新左翼の介入などの紆余曲折を経ながら、反核・反原発運動も継承されていた(その背景には、米ソ冷戦構造に加え、中ソ対立といった複雑な国際関係が影を落としていた)。反核をテーマとした文学作品としては、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』なども忘れることはできないだろう。大阪万博に至るまでの日本の学力受容の流れは、極めて大まかではあるがおおよそ以上のようにとらえることができる。

  一九七〇年三月十四日、大阪万博が開幕した。「人類の進歩と調和」をうたった国家的イベントが早春の日に華やかに火ぶたを切ったわけだが、実はこの日は、敦賀原子力発電所の営業運転開始日とも重なっていた。万博会場がある大阪府吹田市に雪を供給する関西雪は、「万博に原子の灯を」というスローガンを掲げ、日本最初の軽水炉を備えた原発の建設を急ピッチで進めたのだった。夜の大阪万博会場が煌々とした灯に包まれている情景は多くの写真や映像によっておなじみだが、実のところその照明のための電力は原子力発電によって賄われていたのである。58年のブリュッセル万博が史上初の「原子力万博」であったとするなら、それから十二年後に開催された大阪万博は史上初の「原発万博」であったといえるのだろうか。この「原発万博」を象徴するアーチィストが、ほかでもない岡本太郎である。2011年に生誕百周年を迎え、いよいよ「国民的芸術家」として神話化が進みつつある岡本だが、原子力というフィルターを介してみたとき、いままでとは違った一面が明らかになるように思われる。

 岡本の名は、近年は反核の文脈で言及されることも多くなった。その最大の根拠が、2008年以来井の頭線渋谷駅の通路に設置されている巨大壁画「明日の神話』である。岡本が1960年代半ばのメキシコ長期滞在中に制作したこの壁画は、諸事情で長らく行方不明になっていたのだが、岡本没後の二十一世紀になって発見・返還されるという数奇な運命をたどったことで知られている岡本の再評価が進む過程で唐突に出現したこの作品は、第五福竜丸事件をテーマにしていたこともあって、その神話化に大きく寄与することになったのである。

『明日の神話』といえば、2011年四月下旬、若手アーティスト集団Chim ↑pom(チンポム)が作品の右隅に福島第一原発の事故をテーマとした落書きを描き加えたハプニングが記憶に新しい。以前にも広島で原爆をテーマとしたヒコーキ雲を描くパフォーマンスで物議を醸した「前科」があるテンポムのゲリラ的な介入はさまざまな批判を浴びたが、そうした喧(やかま)しさのなかにあって、当の関係者は彼らに対してことのほか好意的だった。

 大切な作品を棄損され、怒って当然のはずの関係者の好意的な反応は意外とも思えるが、実のところその理由を推測することは決して難しくない。誰もが核の問題に過敏にならざるをえない「3・11」以降の状況で、『明日の神話』の反核という部分をクローズアップしたチンポムの「瞬間芸」が、岡本のさらなる神話化に大きく貢献したことは疑いないからである。

 こうして、岡本太郎=反核という図式が定着しつつある現在では、『明日の神話』とほぼ同時期に並行して制作された『太陽の塔』もまた同じ意図によって制作された作品ではないかとの意見も聞かれるようになった。だが、はたしてそうだろうか。先述の原子力博覧会の見取り図に倣うなら、岡本は「反核」ではあっても決して「反原子力」「反原発」ではないというのが私の見立てである。

 吹田市千里丘陵の万博公園に現在も起立する『太陽の塔』は岡本太郎の代表作である。その塔や顔の造形や内部構造、あるいは岡本の大阪万博への関与の仕方やこの奇怪な造形の塔が大阪万博の会場に登場した経緯についてはすでに検討されているので、それらに関して繰り返す必要はないだろう。そのかわり、ここではある一つの「誤解」にこだわってみたい。

 多くの読者は『太陽の塔』が大阪万博のシンボルタワーであったことを疑うまい。それほどにこの塔の知名度は圧倒的なのだが、しかしそれは事実とは異なる思い込みにすぎない。万博会期中に撮影された多くの写真には、『太陽の塔」が丹下健三の設計した銀色の大屋根から突き出している光景が写り込んでいる。実はこの光景は『太陽の塔』が「テーマ館」と呼ばれる巨大パビリオンの一部であったことを示している。このパビリオンの大屋根の上と地下は展示会場になっていて、『太陽の塔』は二つの会場を結ぶ役割を果たしていた。すなわち、『太陽の塔』は本来パビリオンのエレベーターであり、会場全体のシンボルなどではなかったのである。

 『太陽の塔』の高さは七十メートルだが、かつてそのほぼ真南の位置には百二十七メートルと倍近い高さを誇る鉄骨の塔が立っていた。エキスポタワーという名のこの鉄塔こそ、大阪万博のシンボルタワーだった建物である。しかし二十一世紀の現在、そのことを記憶している者は決して多くはない。シンボルタワーの座は、いつの間にか取って代わられたのだ。

 なぜこのような交代劇が起こったのだろうか。真っ先に思いつく回答は、エキスポタワーがすでに失われてしまったのに対し、『太陽の塔』はいまだに現存しているというものだが、これは明らかに説得力を欠く。というのも、エキスポタワーは会期終了後すぐに取り壊されてしまったわけではなく、その後も長らく展望台として活用され、また1890年に営業が終了した後も長らく放置され、解体作業が完了する2003年まで現存していたからである。万博開催の時点で四歳にすぎず、また会場へと連れていってもらう機会にも恵まれなかった私は、当然ながらリアルタイムの狂騒を一切記憶していない。この末書の巨大イベントの存在を知ったのはそれから数年たった小学生時代のことだが、『太陽の塔』についてはおそらく大阪万博そのものとほとんど同時期に知ったのに対して、エキスポタワーの存在を知ったのはさらに何年も後のことだった。当然、前者がシンボルタワーであると長らく勝手に思い込んでいた。これは、何も私だけではなく、大阪万博について事後的に知った多くの者に共通する経験だろう。シンボルの交代劇は、エキスポタワーの消失よりはるか以前の出来事だったのである。

 エキスポタワーを設計したのは、菊竹清訓というメタボリズムの建築家である。極めて大雑把にいえば、メタボリズムは1960年代当時に夢見られていた未来都市を具現化しようとする建築思想であり、その思潮は空中都市を彷彿とさせるエキスポタワーのデザインにも色濃く反映されていた。裏を返せば、そのデザインがあまりにも当時の時勢と強くシンクロしていたがゆえに、時代の潮目が変わった七〇年代以降は、票の老朽化と軌を一にしてそのシンボルとしての機能も風化してしまったといえる。

 恒久保存という当初の予定がいつの間にか変更されたのもそのためにちがいない。その点でも『太陽の塔』は対照的だった。あえて「人類の進歩と調和」に逆行するような呪術的・原始的なデザインを採用した『太陽の塔』は、結果的に会期終了後も風化を免れ、人々に強いインパクトを与え続けたからである。

 だがこの説明でも、依然として十分ではないだろう。ここで私が導入してみたいのが、『太陽の塔』の太陽が実は原子力のメタファーではないかとの仮説である。この仮説に対しては、『明日の神話』との並行関係などを理由とした反論もありうるだろう。それに対して、私は以下の岡本自身の言葉を対置したい誘惑に駆られてしまう

 誇らしい、猛烈なエネルギーの爆発。夢幻のよう な美しさ。だがその時、同じカでその直下に、不幸と屈辱が真っ黒くえぐられた。誇りと悲惨の極限的表情だ。あの瞬間は、象徴としてわれわれの肉体のうちにヤキツイている。過去の事件としてでなく、純粋に、激しく、あの瞬間はわれわれの中に爆発しつづけている瞬間が爆発しているのである。原爆が美しく、残酷なら、それに対応し、のりこえて新たに切りひらく運命、そのエネルギーはそれだけ猛烈で、新鮮でなければならない。でなければ原爆はただ災難だった。落とされっぱなしだったということになつてしまう。       

 一読してわかるように、この文章は広島に原爆が投下された瞬間を描いたものだ。むごたらしい被害のイメージがこれでもかとばかりに強調されていて、そのかぎりにおいて岡本が「反核」の意志を表明していることは間違いない。だがそれと同時に、この文章では同時に原子力の美しさが賛美され、また新たなエネルギー開発への期待が表明されてもいる。特に最後の一文は、「原爆の悲惨さを知る日本人だからこそ、率先して原子力エネルギーの開発に取り組まねばならない」といっているようにも読めるではないか。この文章全体に一貫しているのは、決して素朴な反核思想などではなく、「核」のネガティブなイメージと「夢の原子力」を別個のものとして分離して考えようとする姿勢である。その意味では岡本の思考は、CIA=正力的な学力の平和利用推進派に近接しているともいえるだろう。この理解が決して牽強付会(けんきょうふかい・道理に合わないことを、自分に都合のよいように無理にこじつけること)ではないことは、次の一文を合わせて読むことで了承されるはずである。

 実際、今日ほど生活が空間的にふくれあがったことはないだろう。膨大な、人間の空間へのアヴァンチュール、原子エネルギーの驚異を始め、ロケット、人工衛星、宇宙旅行また地球観測年など、その拡がりは無限だ。このような時代に、芸術の意識も当然、空間的なひろがりをおびてくる。紙やキャンバスの平面に、しみのように染めていくのではもう我慢できない、というのは当たり前だ