芸術と革命

■革命期のロシア・ソビエト芸術 1910−32年

ストリガリョフ・ァナトリー・アナトリエヴィッチ・中原祐介監訳

 年代を区切る境界には、絶対的なものと相対的なもの、無条件的なものと条件的なものがある。10月革命は、疑いもなく、前者に属している。今回、日本で開催されるこの展覧会は、一応1910年から1932年までに年代を限っているが、この境界はかなり条件的なものであり、わが国の・芸術の発展を厳密に区切るものではない。しかし、条件的ではあるが、それは十分に客観的なものであり、より正確にいうなら、法則にもかなっている。というのも、それはロシア芸術、続くソビエト芸術の進化発展において、独自な質をもった時期にあたっているからである。

 1910年代に入る以前に、ロシア芸術は19世紀の伝統を継承しながら、19世紀から20世紀へという交替期の芸術文化の様相を決定づける多くのプロセスや現象を完了していた。この交替期に生れた芸術上の新しいプロセスや傾向は、10年代の初めまでにすっかり完成し、芸術上の、さらに広くは社会生活での動かしがたい事実となっていた。厳密な意味での20世紀の芸術は、1910年代から始まったといってよい。

 芸術の革新が生れた。新しいもの、最近まで単なる迷妄とか“デカダンス”といわれていたものがその地位を獲得し、そのためにより一層“老化’’した古いものと共存しながら、発展し始めたのである。

 芸術家たちの考える芸術の課題そのものが新しいものとなった。これらの課題は、それを解決する新しい道を、また社会における芸術家の地位と役割の更新を要求した。新しい現象、流派と団体、新しい“イズム”、その数の多さと多様性にもかかわらず、そうしたすべてに共通する傾向のようなものが見られた。芸術という手段によって現実を確認すること、現実を受動的に描きだすことを拒否し、能動的な解釈、つまり現実とその具体的な現象に対する芸術家自身の見解を表現すること、こういった傾向がそれである。

 

 10年代の初期は、1905年と1917年の二つのロシア革命の中間期にあたる。素描や油絵、煽動用出版物、雑誌のカリカチュアなどに、1905−7年の革命的諸事件を直接反映させたのち、ロシア芸術は一見革命のテーマから遠ざかり、ある点ではきびしい政治的現実から故意に‘‘目をそむけ”ようとしたかに見えた。しかし、こういった状況判断は、事態の一つの側面を描きだすにすぎない。ロシア芸術における1910年代は、前半は戦前期、続いて第1次世界大戦期にあたっているが、その特徴は、自らの時代、自らの国と自国民の歴史的運命、全世界の文化と芸術の歴史的運命を深く掘りさげて理解しようとする意欲である。この時期の芸術は革命前の芸術であって、旧社会の危機を反映しながら、時代の異常さの感知と、不可避的に迫る根本的な社会変革の予感に満ちている。革命の到来を信じない者は誰もいなかった。その年を予言する詩人もあらわれている。V・V・マヤコフスキーは1916年だといい、V・V・フレーブニコフは1917年だという……。半官半民の大衆向け出版物でさえ、革命の問題を論議していた。たとえば週刊誌アガニョーク』は、1913年のある号の表紙で、世界情勢を軍神マルスと革命との間のチェスの対局として描きだしている。

 

 1917年の革命は、芸術界にとってもきわめて重要な出来事であったこ革命はある種の傾向をきっぱりと断絶させ、またある傾向は変貌させ、そして新しい傾向を生みだして発展させた。わが国の芸術史にとって、革命は境界線であると同時に、1917年“以前”と‘‘以後”の芸術文化の継承の新しい基礎でもあるのである。

 精神生活の主導的な形態の一つとしての芸術は、革命の時代を直接反映し、複雑にまた多義的に、ある期間全体を通じて革命を予告、準備するとともに、革命の経過に同時的に呼応し、その最も重要な社会的成果と目指すところを表現していった。それは、文学、絵画、演劇、音楽など、さまざまな分野の芸術についていい得る。社会の激動の予感は、革命前からすでに始まっていた。革命は、すべての芸術における煽動的な傾向の激発を惹き起し、新しい煽動表現の分野を出現させた。他の分野よりも変化の遅い芸術(建築、デザイン)と、当時生れたばかりの芸術(映画)は、やや遅れ、1920年代に入ってから、本格的に革命に呼応した。この頃になると、文学、演劇、絵画、彫刻は、ごく間近なものとはいえ、すでに革命を歴史的に見るという距離感をもって、より深く革命のテーマをとりあげていた。革命は芸術の歴史的ジャンルの主題となったのである。

 1920年代と30年代の境界は、革命直後の革命に彩られた時期の終りにあたる。20年代末から、ソビエトはその歴史の新しい時期に入った。1929年には、工業化と農業集団化の大規模な活動が始まった。この時期は、国の生活の全分野の転換期であった。ソビエト芸術の歴史においても一つの歴史的段階が完了し、やや別の特徴をもつ次の段階が始まったのである。

 日本の皆さんは、おそらく20世紀のロシアおよびソビエトの芸術についてあまりよくはご存じないと思うので、今回の展覧会がその空白をいくぶんかでも埋めることをわれわれは期待している。

 「芸術と革命」展は、20年間を少しこえる時期にわたってのロシアとソビエトの芸術文化を、総合的に、つまり絵画、彫刻、演劇、建築、デザインその他、それにこの時代独自の特徴をはっきりとつくりだしたさまざまな種類の大衆煽動芸術などによって示そうとするものである。多くの分野に属する出品物は、互いに補いあいながら、革命前と革命後のロシアの芸術文化を広範囲に示すとともに、この時期の芸術の進化発展を概観させるだろう。

 展示空間が限られているため、比較的少数の、しかし典型的な出品物を選びださなければならなかった。この意味で、今回の出品物は、より広範な現象やプロセスの一種のサンプルであり、例示であると見なければならない。同じく量が限られているので、すべての分野の芸術が紹介されているわけではない。彫刻はほとんど出品されていないし、線描(この時期に非常に盛んだった)はまったく出ていない。同じ理由で、革命前の建築、デザイン、ポスターの作品も示されていない。革命前は絵画と舞台美術に重点が置かれている。

 この展覧会で扱われる時期は、わが国の芸術史で最も興味深い時期の一つである。20年余の時期の全体を通じて、ロシア芸術は大きな創造の道を踏破した。それ以前にはかつて見られなかった発展の速さ、創造的探求の熾烈さと多様性、社会生活と個々の領域での芸術の役割の活発化が、この道の特徴をなしている。芸術がこれほどその時代に共鳴しようと努め、同時にこれほど積極的に未来を目指したことはかつてなかつた。それは、絶え間なく新しい理念を生みだした。自国の文化や生活と密接に結びついた、独自性の豊かな芸術であるこの時期のロシア芸術(住民の構成を考慮に入れてより正確にいうなら、多民族芸術)は、同時にまた世界的な意義をもつ現象でもあつた。これは歴史的距離を置いた今日から見るとき、とりわけ強く感じられるところであり、いうまでもなく、10月社会主義革命と直接のつながりをもっていることである。

 芸術家たちは、芸術は世界変革の最も強力な手段の一つであり、それは生活のプロセスに組織的に、しかも調和のとれた働きかけを及ぼす力をもつものであり、芸術および芸術家の活動は積極的な生活建設の一形態だと見ていた。彼らの考えによれば、芸術創造は周囲の世界を積極的に変革するだけでなく、人間自身の社会的、個人的心理をも同じように積極的に形成する能力をもつものであった。芸術の強大な創造的能力に関するこのような確信は、芸術家自身の生活に反映せずにはおかなかったし、芸術家にとっての力強い内的な刺激となった。

 広く普及するに至った芸術上の理念の一つは、諸芸術の総合・・・一つの作品の枠内で、また芸術全体の規模での諸芸術の相互作用と相互富化という考えである。芸術の総合には、生活の建設という機能も含まれていた。

 

 その本来の性質からしても最も総合的な芸術の一つである演劇の活動が、特に盛んになったのはこのためである。またさまざまな分野の芸術家が建築に目を向け、建築計画に積極的に介入を試みたのもこのためだった。しかし、建築の分野で実際に活躍するチャンスはあまりなかったので、芸術家たちは同じ芸術総合の理念を別のかたち・・・この時代に特有であり、またきわめて特徴的なかたちで、つまりさまざまな種類の芸術分野へ個人参加を通じて広く実現し、成功を収めた。画家や線描家は、演劇、工芸、印刷で、時には建築においても自分の力を試して成功した。この時期には、多くの詩人、音楽家、建築家、科学者、演劇家が、絵画や線描に手を染めた。美術家は詩を書き、職業的な舞台監督となり、また美術評論家、芸術論や芸術史の専門家として活躍した。多面的な才能はこの時代の顕著な特徴の一つとなった。

 

  10月革命の勝利の後、芸術の生活建設の役割という考え方が特に強まり、それは新しい内容をもたらした。「芸術を生活の中に」「芸術を技術の中に」「芸術を生産の中に」というスローガンが打ちだされた。

 こうして芸術総合の理念はさらに強まり、その土台を大幅に広げた。将来のソビエト建築と応用美術(今日“デザイン”と呼ばれ、当時は“生活品の芸術”といわれていたもの)を、美術家たちは、絵画、彫刻、建築の方法と形式の総合による理想の産物として、また芸術と技術の総合の産物として見ていた。20年代の中頃、国民経済の復興が盛んに進められ、工業化が始まった時期には、芸術家の活動についても、その作品についても、“合目的性’’や実用性を重視する傾向が強まった。一部の芸術家や評論家は、古い種類の芸術は廃絶されると予言し、はなはだしきにいたっては芸術を否定して“芸術労働’’がそれにとってかわると主張した。

 しかし伝統芸術はこうした条件下でも廃絶されなかったばかりか、このような芸術を切実に求める受け手の大衆的基盤の拡大を通じて、さらに自分の時代を芸術の手段によって記録しようとする芸術家自身の切実な要求を通じて、さらにまたいくつかの芸術分野、たとえば多様な内容の線描の発達と関連して、かえって発展のための新しい刺激を受けた。

 60−70年の距離を置いて20世紀初頭のロシア芸術を眺めるならば、二度と繰り返されることのない独自の特徴をもち、それゆえかなりまとまったものとして見えるのも当然であろう。しかし、いうまでもなく、この時期の芸術は、ここでとりあげている期間全体を通じてみても、またこの時期の各段階における“水平的断面”においても、一様なものではなかった。

 

 それどころか、この時期の芸術の最も重要な特質の一つは、さまざまな現象やプロセスが前代未聞のめまぐるしさで交替し、互いに重なり合っていたことにあり、また実生活と芸術そのものの発展がもたらすすべての新しいものへの友応の迅速さにあった。芸術のさまざまな流れ一並行する流れ、あるいは“敵対する”流れさえもが、活発な相互影響と相互否定の中で生き、発展してゆく。新しい作品が、芸術はいかにあるべきかという全般的な論争の中での論拠の役割を獲得してゆく。

 この時期のロシアとソビエトの芸術は、多くのすばらしい芸術家を生みだしたが、その中には、20世紀の世界の芸術の多彩な様相を決定した巨匠たちも少なからず含まれていたのである。

■絵 画

 ここでとりあげる最初の時期・・・1910年代初期のロシア芸術の状況は、きわめて複雑で、多くの構成要素を含み、しかも内的矛盾に満ちていた諸芸術の中で絵画が主導的地位を占めていた。絵画はすべての芸術の問題の集約点であり、芸術思潮の発生と抗争の舞台でもあった。ほとんどすべての場合、新しい理念は絵画の分野で生れ、そこから他の造型芸術へと波紋のように広がってゆくのだった。

 10年代の初期は、美術ばかりでなく、美術界の動きそのものも活発化した時期である。19世紀のリアリズムの伝統と結びついた諸潮流が、この時期にも盛んな活動を続けていた。その筆頭は、一番古い「移動展派」だが、この派がロシア芸術で主導的地位を占めたのは、もっと前の時期だった。その芸術方針を継承したのが「ロシア美術家同盟」(1903−23)であり、その土台となったのはモスクワ派の画家たちだった。この場合モスクワ‘‘派’’というのは、一定の芸術上の思潮を示すとともに、モスクワ絵画・彫刻・建築学校をも意味している。ロシア美術家同盟のメンバーの多くは、この学校の生徒であり、教師であった。

 19−20世紀の境界に立つモスクワ派の一貫した特徴は、情熱的であり、非妥協的なところであって、アカデミズムの伝統との結びつきが、ペテルブルグ派に比べてはるかに少なかった。実際のところ、20世紀のロシアのすべての革新的潮流は、モスクワ派から出ている。

 20世紀初頭のロシア絵画のリアリズムの諸潮流は、フランス印象主義の美学的発見を巧みにわがものとし、それを自己の課題に煩応させた。移ろう外界の状態の正確な伝達を特質とする印象主義の手法は、風景画、風俗画、静物画、舞台美術に広く利用された。この傾向は、ロシア最大の印象主義画家とされるK・A・コロヴィン(舞台美術)、I・E・グラバーリ(〈梨〉)、より若い世代に属するM・F・ラリオーノフ(〈孔雀〉)、A・M・ゲラシモフ(〈コズロの3月〉)に見ることができる。

 

 むろん、印象主義以外の手法も広く普及していた。たとえば「芸術世界(ミル・イスクーストプア)」に参加した画家たちは印象主義の影響と無縁だった。

 このグループ(1899−1904、および1910−24)は、その綱領に見られる多様な目標の一つに、ロシア絵画をヨーロッパの絵画に接近させることを掲げていたが、そこで念頭に置かれていたのは、印象主義以前の伝統であり、印象主義との結びつきをもたない潮流(19世紀のドイツ絵画−A・メンツェル、H・フォン・マレー、T・ハイネ)だった。

 「芸術世界」は典型的なべテルブルグ的現象だった。このグループはしばらく活動を中断したのち、ほかならぬ1910年に、モスクワの「ロシア美術家同盟」に対する対抗意識を大いに燃やして、活動を再開した。この段階で「芸術世界」は、以前のような同じ考えをもつ人々の狭いグループから脱皮して、できるだけ幅広い集まりの中心となることを目指し、その展覧会には独創的で才能のあるあらゆる若手美術家の作品を展示した。もっともこの場合、彼ら若者の革新が新古典主義を基礎とするこのグループに受けいれ難いほど急進的にならない限りにおいてではあったが。「芸術世界」の活動の第2期における主要な成果は、演劇(このグループの主唱者S・P・ディアギレフが.パリその他のヨーロッパ諸国で開催した有名な〈ロシアの季節〉)と本の装丁の分野にあらわれている。しかし絵画の分野でも、この時期の「芸術世界」の展覧会には、ロシア芸術においてめざましい役割を演じたきわめて多数の作品が展示された。

 19世紀末から20世紀の初めにかけてのロシア絵画の巨匠V・A・セローフ(残念ながら今回の展覧会では、彼の作品ほ演劇部門で1点しか紹介されていないが)の後期の活躍も、「芸術世界」と結びついていた。「芸術世界」の最も傑出した画家の一人は(その主流には属していなかったが)B・M・クストジェフである。彼の風俗画と肖像画は、伝統的なロシアの、主として地方の風俗を総合的に措きだしている。クストジェフは昔ながらののんびりとしたロシアの生活に善意のある皮肉をこめて接し、その‘‘弱点’’を熟知していながら、それを愛して眺めた。このやさしさが見る人にも伝わるので、彼は長年にわたって最も愛されるロシアの画家の一人となってきたのである。<モスクワの居酒屋〉と〈美人〉は、クストジェフの最も典型的な作品に属している。

 「芸術世界」の若い世代の一人がK・S・ベトロフ=ヴォトキンである。のちにロシア絵画のさまざまな革新的潮流と結びついた画家の大半と同じように、彼も青年時代には印象主義の段階を通過した。若者たちは学生時代に印象主義の手法に親しむのが普通だった。というのも、モスクワではK・A・コロゲインやV・A・セローフ、ペテルブルグの美術振興協会の学校ではY・F・ツイオングリンスキーといった教師たちが人気を集めていたからである。

 しかし、印象主義はすでに一種の“過去”となっていた。そこでロシア絵画では(それぞれの国のニュアンスはあるものの、ヨーロッパの他の国でも同じだったが)、印象主義の手法の研究と並んで、ほとんど同時に、印象主義とは原則的に対立する思潮が出現する。

 この思潮が第一に否定したのは、自然あるいは生活現象の束の間の偶然的な“状態’’を定着し得るにすぎない印象主義の直接写生主義だった。つまり、絵画に流れこんだ写生の流れに反旗をひるがえしたのである。印象主義超克の道はさまざまだったが、その多くは、ヨーロッパ、とりわけフランスの後期印象主義によって示唆を受けた。

 20世紀初頭のロシアの画家は、絵画の最新の動向を注視し、フランス、ドイツ、イタリアにいって勉強し、それらの国の展覧会に出品する者も多かった。ロシアでは1908−13年にロシアとフランス(セザンヌ、ボナール、ドニ、マティス、ドラン、ピカソ、ブラック、グレーズその他)、ロシアとドイツ(キルヒナー、ミュラー、マルク、マッケその他)の合同展が開かれているモスクワのS・I・シチューキンとI・A・モロゾフの個人コレクションは、当時の現代ヨーロッパ絵画のコレクションとしては世界最大級のものだった。詩人V・V・マヤコフスキーは、この時代についてこう書いている。

 あるシーズン われらの神は  ファン・ゴッホ、  別のシーズンは セザンヌ。

 ヨーロッパ美術の最新の探求は、ロシアにきわめて急速に受けいれられ、研究され、その結果が独自の作品に反映された。多くのロシア画家の新作品ほ国内のみならず、外国でも注目を集め、これもまた20世紀の世界芸術の発展に影響を与えた。

 これは、ヨーロッパ絵画の革新がロシア芸術に影響を与え、その中で独自に解釈され、純粋にロシア的な芸術の伝統、あるいはロシアの芸術文化の新しい自立的な傾向と相互に作用しあったことと結びついている。したがって、10年代のロシア芸術の革新的潮流は、一方ではヨーロッパ芸術の諸潮流(印象主義、フォーヴイズム、立体主義)と類似点をもちながら、他方ではそれらとはっきり対立するものをももっていた。

 印象主義の道を完全に否定した潮流は一様ではなく、かなり幅広いが、そのなかで組織的にはほとんどまとまりを見せていなかった潮流として象徴主義がある。この名称はかなり条件的なものであって、ロシア文学の象徴主義との類推で使われている。多くの画家が文学上の象徴主義の理念に近い立場をとっていたのである。スタイルの面で、象徴主義の初期の作品に影響を及ぼしたのは、世紀末のスタイルであった。展示作品の中では、象徴主義の特徴はP・V・クズネッオフ、M・S・サリヤン、K・S・ベトロフ=ヴォトキン、P・N・フィローノフ、M・Z・シャガールといった互いに類似点の少ない画家たちの作品に見られる。象徴主義の画家たちは画家が描かれる対象に支配されることを否定し、対象を詩的に変形し、あるいるいは”見えないもの”や“あり得ないもの”を表現し、現実の生活で直接に見えるもの肘静物や肖像にも非現実的な特徴を与えた。彼らの作品は、詩的作品、抒情詩のように、現実を自身のやり方で伝えるものであり、詩に特有の、厳密でありながら、しかし‘‘目にはつかない”形式的構成と完結性とを特徴とした。

 

 20世紀初頭のロシア芸術の非常に重要な特色となったことに、古いロシアの芸術(イコン、フレスコ)という忘れられた伝統への回帰・・・現代的なレベルでの回帰がある。古いロシアの伝統とのはっきりした結びつきは、K・S・ぺトロフ=ヴォトキンやP・V・クズネツォフだけでなく、絵画言語の革新の道をさらにはるか先まで進めた何人かの画家たち・・・N・S・ゴンチャローダァ、V・E・タトリン、K・S・マレーヴィッチにも見られる。M・S・サリヤンは古代アルメニアのミニアチュールの伝統をふまえ、P・N・フィローノフはもっと古い時代一原始芸術のフォルムに注目した。

 

 同時に革新者たちは、当時の専門の学校で教えられるプロフェッショナルな絵画芸術とはほとんど全く接触をもたなかった民衆芸術の生きた伝統の中に支えを見いだし。この種の“低俗な”芸術の実例や見本は、看板、長持・紡車・棲・盆に描かれた絵、稚拙な‘‘民衆画”、おもちゃ、糖蜜菓子など、多種多様だった。これと並んで注目を惹いたのは、市民、労働者、兵隊、子供等々による現代の“卑俗な”民衆芸術である。革新者たちはこの新しい描写の方法を意織的にプロフェッショナルな芸術にとり入れた。こうした種類の芸術の影響はそれ以来きわめて広く、今日にまで及んでいるといえよう。だが10年代の初めに、これは一つのまとまった潮流を形成し、プリミティヴィズムあるいはネオプリミティヴィズム(画家A・Ⅴ・シェフチエンコの用語)を名乗って、程度の差はあったが、当時のロシア芸術にみられたほとんどすべての潮流に影響を与えた。

1910-11年にかけての1回限りの展覧会の名称だった「ダイヤのジャック」が、この展覧会の参加者が新たに結成した美術家グループ(1912-17)の名称として選ばれた。このグループについては後述。

 プリミティゲイズムは民衆芸術におけると同様、世界を先入見なしに鋭く見つめようとするものだった。画家は何よりもまず、描かれる対象に対する自分の態度を表現し、自己の評価を観衆と“分かち合おうとした。それを生みだす形式は、単純化され、“粗野”で、鋭い表現力をもち、きわめて装飾的で、民衆芸術の伝統と密接に結びつき、時代に左右されぬ安定性をもっている。現代の研究者は、ロシア芸術におけるプリミティゲイズムの潮流を、正当にもヨーロッパの表現主義の独特のアナロジーと見ている。しかし、同時にいっておかなければならないが、両者の関連はかなり遠いものであって、ほかならぬ民衆的伝統との結びつきが、このプリミティゲイズムを表現主義に通常見られるものよりももっと“善良で”“明るぐ’楽天的なものにしているのである。

 「芸術世界」が活動を再開した同じ1910年に、二つの新しい若手美術家のグループが誕生した。そのうちの一つはモスクワで「ダイヤのジャック」展を開き、もう一つのペテルブルグのグループは「青年同盟」に結集して、リガで第1回の展覧会を開いた。これら双方の展覧会の基調をなしたのがネオプリミティズムである。創造の点でも、組織の上でもここできわめて重要な役割を演じたのがM・F・ラリオーノフN・S・ゴンチャローヴァであり、この2人、とりわけラリオーノフは、20世紀の芸術における最大の、そしてまだ完全には評価されていない人物の一人である。

  

 ラリオーノフは創造上、組織上のアイデアの尽きることのない源泉であり、いくつかの新しい方向を生みだしたが、自らはそのうちのどの一つにも原則的に束縛されなかった。ラリオーノフは一連の標題のある展覧会(「ダイヤのジャック」1910-11年、←ロバの尻尾」1912年、「標的」1913年、「No・4」1914年)を組織し、ロシアのネオプリミティゲイズムのあらゆるニュアンスを紹介した。これらの展覧会で(並行して開かれたペテルブルグの「青年同盟」の展覧会でも同様だったが)M・F・ラリオーノフとN・S・ゴンチャローヴァ、D・D・ブルリューク、Ⅴ・E・タトリン、K・S・マレーゲィッチ、M・Z・シャガール、A・Ⅴ・シェフチエンコ、M・Ⅴ・レダンチュ、Ⅴ.Ⅴ.カンディンスキー、それに1912年に結成されたグループ「ダイヤのジャック」の中核となり、この時までにラリオーノフとたもとを分っていた画家たちの作品が、ロシアの観衆に紹介された(以上に名を列挙した画家たちの作品は、今回の展覧会に展示されている)。1913年の「標的」展で、ロシアの観衆は初めて(そして革命前にはこれ一回きりだった)すぐれたグルジアの画家N・A・ピロスマナシュヴィーリ(ピスマニ)の作品に接している。ピロスマニは真の民衆画家で、故郷のチフリス(現在のトビリシ)で居酒屋や大衆娯楽施設の看板や壁画を描いていた。

 プリミティヴィズムから出発しながら、セザンヌの仕事とそこから派生したフランスの立体主義が絵画芸術にとって画期的な意義をもつという認識のもとに生れたロシア美術独特の潮流に、“モスクワのセザンヌ派”と呼ばれたものがある。「ダイヤのジャック」グループに結集したこの派のメンバーは、ロシア芸術で仕事の上でも、組織の上でもきわめて活発な勢力となった。その主要メンバー・・・Ⅰ・Ⅰ・マシュコフ、P・P・コンチャローフスキー、A・Ⅴ・レントウーロフ、R・R・ファーリク、A・Ⅴ・クプリーン、Ⅴ・Ⅴ・ロジデーストヴェンスキー、やや遅れてA・A・オスミョールキンは、それぞれ独自の個性をもちながら、基本的な創作態度については見解を一致させていた(これらの人々の作品は今回展示されている)。

 現代の西側の美術研究者たちは一般に、これらの画家の意義を過小評価し、彼らはセザンヌの地方的な模倣者にすぎないと考えている。しかし「ダイヤのジャック」の美術家たちは、それとは全く違った目標を抱いていた。彼らは純然たる民族的な美術の伝統に貢献しようとし、それを現代向きに解釈することを目指していたのである。そしてこの目標は達成された。ロシアとソビエトの芸術に「ダイヤのジャック」の美術家たちが与えた直接、間接の影響は実り多く、またきわめて持続的なものであった。

タトリン〈素材の組合せ〉1914年                                                  タトリン  

 ロシア芸術のさらに別の潮流と立体主義との接触は、もっとラディカルであった。セザンヌと立体主義は、以前に印象主義がそうであったように、多くのロシアの美術家に深い影響を与えた。他方で立体主義は、これも以前に印象主義がそうであったように、それを試してみたいという願望だけでなく、それに反対する創作態度をつくりあげようとする願望をも起こさせた。

 ロシア版の立体主義は、当時のロシア詩壇の潮流の名称と同じ「クーボフトリズム」(立体未来主義)という名で呼ばれるようになった。立体主義は非具象に入るギリギリの線に近づいていた。そしてさまざまな美術家がさまざまなやり方で、ほとんど同時にこの一線を踏みこえた。立体主義から派生し、それに対立するものとして、K・S・マレーヴィッチおよびV・E・タトリンの名と結びつく非具象作品の二つの体系が生れた。

 マレーヴィッチは立体未来主義のコンポジション(I・クリュンの肖像〉)から幾何学的抽象へ移ったが、彼はその基本要素を白い背景の上の黒い正方形、円、十字形と考えた。マレーゲィッチによれば、それが絵画の歴史的発展の最終結果である「ゼロの形式」であり、新しい創造はここから始まらなければならなかった。1915年以前にマレーヴィッチがつくりあげたこのような絵画の体系を、彼は「シュプレマティズム」(絶対主義)と名づけた。マレーゲィッチの考えは、彼の主観的な哲学的内容に満ちたものであり、それは芸術をあらゆる世俗的制約から解放し、それをユートピア的なある種の自由なエネルギーの宇宙的規模の調和に変えるというのであった。

 タトリンの道は、これとはまったく別だった。ピカソの立体主義の作品に直接触れてタトリンは具象絵画を放棄し、絵具の使用から非絵画的素材(木、鉄、ボール紙、石膏など)の組合せに移り、それらを絵画の画面からその手前の現実の空間へと引きだし、あるいは空間内に自由に吊り下げた。自己の作品の新しい方法に即応させて、彼はこれらの作品を「素材の組合せ」あるいは「絵画的レリーフ」と名づけ、のちにはそれらすべてを「反レリーフ」と呼んだ。タトリンの立場は最初から構成主義的であり、使用するさまざまな材料そのもぁの特性と形態から出発するのである。タトリンはこうして将来の構成主義芸術の基礎を築いた。

 タトリンの仕事、そして特にマレーゲィッチの仕事は、L・S・ポボーグァ、I・A・プーニ、O・V・ローザノヴァ、N・A・ウダリツォーヴァ、A・A・エクステルその他の美術家たちの探求に刺激を与えた。彼らの大半はどちらかといえばシュプレマテイズムに傾いていたが、彼らのシュプレマテイズム的作品はタトリンの示唆したより構成主義的なフォルムを示している点で、マレーゲィッチのそれとは違っていた。これは絵画と彫刻の独特な総合である諸作品(プーニの〈アコーディオンのあるコンポジション〉、ポボーグァのく卓上の水差し〉)に特にはっきりとあらわれている。おそらくこれらの美術家たちはそうすることによって、純粋に哲学的であり、あらゆる機能的課題を意図的に捨象したマレーゲィッチの考え方を補おうとしたのであろう。

 ロシアで非具象美術のもう一つの体系(そしてこれまでに挙げたものの中では最も時代的に早い)を打ちだしたのは、V・V・カンディンスキーである。彼はその作品で、直観的、意識下的、連想的なものにきわめて重要な役割を与えた。カンディンスキーは絵画において2種類の形成要素(フォルム)・・・形態と色彩を区別し、それぞれは個別に絶対的価値をもち、それらの相互作用が双方のフォルムの相対的価値を発揮させると考えた。カンディンスキーの絵画は自由な即興音楽を思わせる。形態と色彩の組合せを、彼が「2音のハーモニー」と表現していたことはきわめて意義深い。

 ここで、革命前夜の時期の革新的な芸術が、芸術形式の完全な更新や、絵画の伝統的題材の拒否などと結びつくものばかりではなかったことに注意を向けなければならない。多くの画家たちは伝統的な技法を手がけ、しかも際立って現代的であった。たとえば、H・I・アリトマンP・V・ミトウリッチの肖像画、D・P・シュテレンベルグの静物画、G・B・ヤクーロフの近代都市の生活を描いた風景画などがそうである。この種の活動は深い肯定的意義をもっている。第一に、それは、芸術的感動に満ち、そして他に代え難いやり方で自らの時代を表現し、しかも時代にふさわしい形式でそれを実現しているからである。第二に、こうした活動によって、他のより急進的な形式上の実験が具体化されたからである。実験的探求の成果は時代の美的感知の次元へと移され、歴史的継承の連鎖に、新しい・・・現代の・・・環が加えられたのである。

 

 この時代の雰囲気を物語る重要な状況として、ロシア・ソビエトの革新的美術家たちの中での女性のきわめて大きな役割(量的にも、質的にも)を指摘しておきたい。この展覧会で紹介されている美術家の中では、N・S・ゴンチャローヴァL・S・ポポーヴァ、O・V・ローザノヴァ、N・A・ウダリツォーヴァ、A・A・エクステルがそうである。革命後には、上記の人たちにT・M・エルマカーロヴァA・A・レポルスカヤ、T・M・マカーログァ、V・I・ムーヒナ、V・F・ステパーノヴァ、V・M・ホダセーゲィッチなどが加わる。この状況は、.芸術の革命性を示す間接的ではあるが、十分に客観的な証拠である。精神的、法的、物質的同権を目指す女性の闘いは、社会を変革する重要な要素の一つだった。創造の自由と創造上の同権は、男女同権の別の側面を象徴するものである。

 革命は絵画そのものの中には、本質的に新しいものをもたらすことがなかった。しかし、革命は芸術界の多くの状況を直ちに根本から変えてしまった。それ以前からの芸術組織は別の内容で満たされた。この変貌は、革命の時期にも、そして別のかたちではあるが、革命後数年を経てやってきた平和建設の時代にも見られた。

 革命は芸術家たちを大いに結束させた。創造上の見解の相違はしばらくの間棚上げにされ、忘れ去られた。ソビエト政府は、教育人民委員会とその下のしかるべき機関(IZOとそのペトロダラード、モスクワ両協議会、教育人民委員会やIZOの地方支部)を通して、新しい基礎に基づく芸術界の活動を組織した。政府は多くの芸術分野でスポンサーとなった。モニュメント芸術では、「モニュメントによる宣伝」計画に沿って大規模なモニュメントのシリーズを依頼し、印刷による多種多様な・活動(グラフィック・デザイン、ポスター、国立図書出版所での仕事)や、装飾、工芸のさまざまな部門(祝典の飾りつけ、新しい紋章制作、陶器工場などの国営企業での仕事)や、国有化された劇場や建築の分野でスポンサーになった。美術教育の制度が一本化され、再編成された。革命とそれがもたらした社会構造の変化にともなって、国内での芸術品の収集、保存、修復の問題が新しく提起され、処理されていった。

 国家は最も重要な展覧会の主催者となった。古い博物館は国有化され、多くの新しい博物館や美術館がつくられた。この中には、世界で初めての現代美術の専門美術館で、「絵画文化美術館」(もしくは「美術文化館」)と名づけられた一群の美術館がある。芸術の活発な発展のプロセスへ貢献することを目標とする、次のような新しいタイプの学術機関が誕生した。モスクワのINKHUK(1920−22年)、レニングラードのGINKHUK(1923−27年、美術文化館から誕生)GAKHN(1921−33年)といった全国規模の総合的な科学的組織である。

 これらすべての事業に、芸術家その他の文化人が直接参加した。初期には、“左派”・・・革命前には社会的承認や支持を得ていなかった革新派の代表たちが主であった。“左派”は中央や地方のIZOの主導権を握り、モニュメントによる宣伝、芸術教育、展覧会の開催、書籍や雑誌の発行などの組織的活動を行なった。多くの実践活動の中で彼らはさまざまな傾向の芸術家をうまく結束させることができたが、彼らの理論と創造概念は、考え方や活動の仕方の違う芸術家の抵抗に会い、広範な人民大衆とその指導者の代表という新しい観衆からも満足をもって受けいれられなかった。

 内戦が続き、14の資本主義国の干渉軍がソビエト・ロシアの領内に投入されていた“戦時共産主義”時代(1918−20年)には、芸術は闘争の武器だと考えられた。美術家はポスターを描き、スローガンを書き、祝祭日のために街を飾りつけ、煽動演劇のための舞台装置を引き受け、煽動列車や船の車体、船体に絵を描き、臨時のモニュメントや演垣を設計し、軍の偽装学校で働き、人民大衆に芸術を普及させた。マヤコフスキーの次の詩「芸術軍隊への命令」はまさにこの頃のことである。

  道路は われわれの絵筆  広場は われわれのパレット

 革命そのものが芸術家たちに壮大な叙事詩的形象を要求した。それの最初の手本を示したのが、叙事詩「12」のA・A・ブローク戯曲「ミステリア・ブーフ」のA・A・マヤコフスキーの2人の詩人だった(両作品とも1918年)。革命を象徴する形象に絵画もまた引き寄せられた。

 

 伝統的なロシアの生活を賛美して描いていたB・M・クストジェフは、突然スタイルを変え、ブロークの詩と同じ傾向の象徴的な作品〈ポリシェビィク党員〉(1920年)を描いた。象徴的形象に関心を抱いていたK・S・ペトロフ=ヴォトキンは、革命の時期に描かれた絵・・・肖像画や静物画ですら・・・で、時代の感動的な象徴表現することに成功した。彼の“風俗画”〈1918年のベトログラード〉(1920年)が「ベトログラードのマドンナ」として観衆に受けとやられたのも決して偶然ではない。

 

 M・Z・シャガールの“風変りな”絵画〈散歩〉(1917−18年)には、精神的な解放感、自由、かなたに未知の未来が開けている境界線へようやく到達したという感じがうかがえる。シャガールよりさらに“風変りな”画家P・N・フィローノフは、〈ベトログラードのプロレタリアートの公式〉という同一のタイトルで、モザイク画を思わせる非常に細かい、入念な仕上げによる数枚の絵画・・・群像の象徴的な構図・・・を描いている。フィローノフはその悲劇的な「分析的絵画」で時代の息吹を表現し、“一時的なもの”を“永遠的なもの”に結びつけようとした

 絵画における形式の探求者は、この当時、形式の追求は未来のまったく新しい芸術の開始、あるいは準備であり、芸術による世界認識の視野を広げることだと理解していた。やがて多くの美術家たちの心に、抽象的な仕事は一種の‘‘アトリエでの実験’,であって、現実の生活実践・・・建築、デザイン、社会生活のさまざまなプロセスへの芸術の積極的介入が必要だという考え方がきわめて急速に芽ばえ、強まっていった。こうした考え方を支持する人たちは、それ相応の仕事上の進化発展を実現していった。こうした運動のスローガンは、「イーゼルから機械へ」「絵画から更紗へ」などと故意に単純化されていた。

 

 実験的な油絵、実験的な構成作品が一連の展覧会で展示された。その主なものとして、「第10回国家展・・・非対象創造とシュプレマテイズム(モスクワ、1919年)、一連の「UNOVIS」合同展(ゲィチェブスク、1919−22年)、「OBMOKHU」展(モスクワ、1920−21年)、「芸術の新しい潮流の統一」展(ペトロダラード、1922年)、「5×5=25」展(モスクワ、1921年)などが挙げられる。このうちの最後のそれは、ヴァルスト(V・F・ステパーノヴァ)、A・A・ヴェスニーン、L・S・ポボーグァ、A・M・ロドチエンコ、A・A・エクステルの5人の参加者が、抽象的構図の絵画を5点ずつ出品したものだった。少し後になると、こうした性格の展覧会には、絵画と並んで衣服や日用品のデザイン、建築プランが展示された。

 K・S・マレーゲィッチの弟子たちのあるもの(L・M・リシツキー、G・G・クルツイスら)のシュプレマテイズムの絵画は、空間的な構成を示しているが、他のものたち(I・G・チャーシュニクら)の作品は“平面的なもの”にとどまっている。マレーヴィッチ自身は、啓蒙的目的のためにシュプレマテイズムの絵画の体系と新たに取り組み、これを印象主義をはじめとする他の体系と対比させた。マレーヴィッチの新しい作品には描写表現の要素が入ってきている(〈赤い騎兵隊がゆく〉1918−32年)。マレーゲィッチに近いM・V・マチューシンは絵画における色の知覚の問題と取り組んだ。

 立体未来主義の絵画は、多くの美術家の作品の中に構成要素となって入りこみ、絵画形式やイメージの表現力を“先鋭化”する手段となった。H・I・アリトマン、M・V・レべジェフ、A・N・ヴォルコフなどの作品にそれが顕著に読みとれる。

 ソビエト絵画で非常に大きな役割を果たしたのは、「ダイヤのジャック」の元メンバーたち、とくに、P・P・コンチャロープスキー、I・I・マシュコフ、R・R・ファーリク、A・A・オスミョールキンなどである。彼らの影響は彼ら自身の作品活動を通じてだけでなく、とりわけ、彼らが主導的な教師として一貫して先頭に立っていた美術学校を通じて定着した。かつての「ダイヤのジャック」のメンバーの芸術の性格はこの時期までに若干変化し、セザンヌに終るフランス絵画と、「ロシア美術家同盟」に始まるロシア絵画の二つの流派を総合したものとなっていた。

 1920年代になるとオスミョールキンの仕事が花開きファーリクが新たな飛躍を見せるに至る。ファーリクは、この時期のいくつかの作品で知性と深い芸術性のいわば“レンブラント的”結合をしばしばなしとげている(<画家ドゥレーヴィンの肖像〉)。

 「ダイヤのジャック」の元メンバーたちは、ソビエト時代になると、新しくなった「芸術世界」や「モスクワ絵画美術家協会」、「存在」、OMAKHR、AKHRらに加入した。これらの団体や協会は設立されては解散したが、その一部だけは長く存在し、はっきりとした作品上の特徴を獲得していった。したがって1920年代のソビエト絵画を傾向別に検討するのは部分的にしか妥当ではない。芸術分野の重要性が多くの点で復活したので、伝統的な分野別のアプローチがより妥当な判断の基準となるだろう。

 20年代のカンヴァスによる芸術は、カンヴァスに描く絵画など近く死ぬか、すでに死んでしまったと唱える「生産芸術」支持者の主張に反して活発に展開した。デザインの対象ではなく、まさしく絵画が芸術の支配的形式となり、芸術の他の分野に影響を及ぼしたのである。絵画に対する欲求は二つの異なる側から起こった。一つは、絵画は美術的“発言”の主導的形式であったし、それは依然として変わらない、絵画芸術は主として絵画を通して発展する、と正当に考えていた当の美術家たちからである。もう一方では、大半の美術家やほとんどすべての“観衆”はテーマをもっ絵画に引きつけられていた。すなわち、“いかに”描かれているかだけでなく、“何が”描かれているかをも重視したのである絵画に対する要求は“何が”描かれているかという点につきることも珍しくなかった)。

 画家たちが描いたのは、肖像画、風景画、静物画、風俗画、あるいは歴史画である。いかに描き、どのように時代を反映すべきか・・・それは改めて検討するに値する概念である。そこに主な流派の間の分水嶺が引かれた。当時活動していたいくつかの美術団体や協会の立場を指摘しておこう。それは、AKKR、「4大芸術」協会、OST、「美術家サークル」の四つである。

  

 AKHR(1922−32年)はロシアの「移動展派」のリアリズム芸術の後継者であり、それの一部の若手メンバーも受けいれた最大の美術団体であって、他の団体や若ものを加えて徐々に大きくなっていった。さまざまな時期にAK=Rのメンバーになった人たちは次の通りである。I・I・ブロツキー、F・S・ボゴロツキー、A・N・ヴォルコフ、S・V・ゲラシモフ、M・B・グレコフ、B・V・イオガンソン、B・M・クストジェフ、S・V・マリューチン、I・I・マシュコフ、N・M・ニコノフ、G・G・リヤシスキー、P・P・ソコロフ=スカリャ、K・F・ユオーン、その他多数。AK=Rは、ソビエト芸術の最大の課題はカンヴァスによる絵画、線描、彫刻によって、新しい生活と最近の歴史的過去を記録することだと考えていた。絵画はあれこれの事件や行動を描き、描かれたものに対する画家の態度も伝える筈のものであった。AKHRは定期的に大がかりなテーマ展を開催し、最も数多くの観衆を惹きつけた。この美術団体はソ連の世論や広範な大衆の支持を得、国内各地に支部を持っていた。

 AKHRのメンバーはソビエト芸術の中に歴史画の伝統をよみがえらせ、頻繁に革命期のエピソードをとりあげたり(たとえば、I・E・ダラバーリ〈レーニンと真直な電線〉、N・M・ニコノフ〈赤軍のクラスノヤルスク進攻〉)、自らが目撃した事件を、歴史にとって重要な同時代人の証言として主題にしたりした(K・F・ユオーン〈赤の広場のパレード〉、B・M・クストジェフ〈ネヴァ河畔の夜の祭典〉、コルホーズの生活をテーマにしたA・N・ヴォルコフの作品など)。AK=Rの会員は産業風景画(S・V・ゲラシモフら)や独自の‘‘モニュメント”的静物画(I・I・マシュコフら)など、幅広く取り組んだ。

 ソビエト時代に入って、きわめて重要な歴史的事件が発生し、新しい社会組織が成立し、まったく新しい現象が生活に入りこんできた。近代的な都市化、工業化、スポーツがそれで、新しい人間像が形成され、とりわけ女性の役割が変化した。新しいテーマは、古い、19世紀から受け継いできた絵画手法では表現できない、とAKHRに対立する美術家たちは考えた。新しいテーマは新しい表現様式を要求する。最も首尾一貫して、新しい活動とそれにふさわしい芸術形式の総合を探求したのが、モスクワの団体OST(1925−32年)のメンバーたちだった。OSTの組織にとって予備的な一歩となったのが、いわゆる第1回「積極的革命芸術団体討論」展(モスクワ、1924年)である。これには若い美術家たちが参加した。

 

 

 参加者(大半はVKHUTEMASとつながりのある若い美術家たち)は、いくつかのごく小人数のグループを代表して討論さるべき概念を提起し、自らの作品によってそれを裏づけた。出品作品のうち大半はカンヴァスによる作品だったが、家具、衣服、建築などのデザインもあった。この展覧会の参加者からOSTの中核ができあがったのである。

 OSTのメンバーは、カンヴァスによる芸術の“死滅”問題では生産派や構成主義に同意しなかった。彼らは他ならぬカンヴァス芸術を手がけたいと望んでいたのである(進んで演劇や印刷などの分野で働きはしたが)。他の面では彼らは構成主義と手を組み、絵画によってこの運動に匹敵する一つの流れをつく りだした。OSTの最も特徴的な代表とみなされているのが、A・A・デイネカ、Y・㈵・ピーメノフ、P・㈸・ゲィリヤムス、A・D・ゴンチャロフである。彼らの絵画はいくぶんグラフイγク的で、“ポスター的”ですらあって、簡潔で、色彩が力強く、男性的で、ダイナミックである。“単純”に見える線や色の背後に、探求心や正確さや計画されたリズム感が隠されている。彼らの絵画は、具体的なテーマとは無関係に、表現豊かな、普遍化された“時代の肖像画”となっていることが少なくない。

 OSTの代表D・P・シュテレンベルグの絵画(〈煽動者〉)はある程度いま挙げた画家たちの作品と似ている。しかし彼の静物画は、純粋主義的であると同時に直観によるもので、全く独特である。A・G・トウイシュレルとA・A・ラバ大の作品も、他の会員とは異なり、つねにある非現実性の色合いを帯び、描かれていないところの何かを観衆に語りかけてくる。S・A・ルチーシュキン(〈風船がとんでいった〉)は、素朴な抒情性によって‘‘ナイーヴな芸術”と関連し、OST内の二つのグループの中間あたりに位置している。

 レニングラードでOSTに近いグループに「美術家サークル」(1926−32年)があった。これには、A・N・サモフグァーロフ、A・F・パホーモフ、㈸・㈸・バクーリン、㈸・㈸・クプツオフなどが加入していた。「美術家サークル」のメンバーは、OSTと同じテーマと取り組み、’同じ道を歩みながら、絵画ではなぜかよりソフトで抒情的になっている。同様の拝惰性は、20年代と30年代の境目に創作上新たな飛躍を示したモスクワのA・㈸・シェフチエンコにもみることができる。

 「4大芸術」協会(1924−32年)は、絵画、線描、彫刻、および建築の大家たちを集めたものだった。これはかなり異色の、本質的にはなんら共通概念をもたない団体であって、仕事上の功績を認めるしるしに会員を受けいれる一種の“クラブ’となっていた。そして事実、この協会には多くのすぐれた美術家が加入した。絵画では、P・㈸・クズネッオフ、(会長)、K・N・イストミン(書記)、M・S・サリヤン、K・S・ベトロフ=ヴォトキン、㈵・E・グラバーリ、ト㈸・クリュンら、線描では、A・㈸・ファボルスキー、A・㈵・クラフチエンコ、L・A・ブルニ、P・㈸・ミトウリッチ、N‘A・トウイルサら、彫刻では、A・T・マトゲェェフ、㈸・㈵・ムーヒナ、M・㈸・レべジェヴァ、トM・チャイコフら、建築では、㈵・㈸・ジョルトフスキー、A・㈸・シチュセフ、L・M・リシツキーら。これら一般に認められた巨匠たちは、“自作の芸術的な質”とその高い職業的水準を決定的な基準とみなしていた。「ロシアの伝統のもとで、絵画のリアリズムを現代のもっともふさわしい美術文化とみなす」と、協会宣言は述べている。現代生活の複雑な仕組みの中での芸術の位置を評価するにあたって、「4大芸術」協会は、他の生命活動の分野とは異なり、芸術には“単純で、人間性に近’いという点でもっとも深く本質があらわれるという特徴がある”*という確信をもっていた。

 20年代になると、P・㈸・クズネッオフやM・S・サリヤンといった初期の著名な画家の絵画に、質的に新しい段階がやってくる。両者の場合、それは新しい生活を反映したい、その特色を賛美したい、という願いと結びついている。彼らの絵画は装飾的であり、楽天的である。建設や産業風景やスポーツをテーマにしたクズネッオフの作品は、モニュメント的な壁画の一部のように見えるが、同時に図形の装飾性や色彩の組合せの繊細さで魅了する。当時サリヤンは、ソビエト芸術で、その独自性がもっとも豊かで力強いものの一つであるアルメニア絵画の創始者となりつつあった。

 K・N・イストミンの作品は、1920年代と30年代の境目の時期の絵画にみられる造形性の探求の、最も典型的な手本の一つである。同じ時期にA・D・ドゥレーダィンがつくりあげた、純粋に造形的な絵画的形象はさらに異色である。この時期の特色の一つとなったのは、1920年代のフランス絵画の経験を修得することであった。とりわけ「4大芸術」協会の宣言によって明らかにされたこの傾向は、H・㈵・アリトマン、A・D・ドゥレーヴィン、P・㈸・クズネッオフ、㈸・㈸・レベジェフ、M・S・サリヤン、R・R・ファーリク、A・㈸・シェフチエンコなどといった異なる流派や協会に属する美術家たちの仕事で際立っている。

 K・S・ベトロフ=ヴォトキン(やはり「4大芸術」協会に加入していた)は肖像画ですぐれた形象をつくりあげた。肖像画は元来、ソビエト芸術のもっとも重要なジャンルの一つであった。それは、具体的な人物の肖像であると同時に、普遍化された肖像画でもある。ロシアの伝統に従えば、これは、大部分が心理的肖像画である。当時の肖像画の主な巨匠には、(ベトロフ=ヴォトキン以外に)M・㈸・ネステロフ、㈸・N・メシュコフ、㈵・トブロツキー、S・㈸・ゲラシモフ、G・G・リヤシスキー、その他大勢の画家がいる。彼らは、今日、革命後の時期をわれわれが知る重要な源泉の一つとなっている、当時の人たちを示す一大画廊をつくりだしたのである。

 美術家自身も変わった。1920年には、革命前の美術家とは異なるソビエト美術家のタイプができあがった。革命芸術の最大のリーダーの一人である㈸・㈸・マヤコフスキーについて語りながら、マリヤ・ツヴェターエヴァは、革命における芸術家の役割について次のように書いている。「マヤコフスキーがいなかったなら、ロシア革命の損失は大きかっただろうが、それは革命がなかった時のマヤコフスキー自身についても同様だ*」。この言葉は多くの美術家についても、また革命期の芸術全体についても言えることである。