大衆煽動芸術

■大衆煽動芸術

 煽動芸術は革命と直接結びついている。それは特別の分野ではなく、革命の時期のソビエト芸術全体の主要な傾向であり、さまざまな芸術間の境界を消し去って総合する新しい形式の土台となった。

  

 煽動芸術は新しい生活様式の形成、広範な人民大衆の啓蒙と教育、旧体制に典型的な見解や趣味の再教育などに積極的に寄与した。したがって、革命の時期の大衆煽動芸術は美学よりもいくぶんかは社会倫理の分野に属していた。この特徴は、革命煽動芸術はロシア文化のきわめて重要な長い伝統に完全に合致していたということである。ロシアには苦から芸術を“人生の教師”とする態度があり、特に19世紀にはそれが一般化していた。

 いうまでもなく、社会主義革命のような決定的な社会変革の時期には、芸術の思想的、宣伝的意義が大幅に増大しなければならなかった。社会主義革命は、史上例を見ない文化全体の民主化を促した。文化的に遅れた・ロシアに、きわめて広範な人民大衆を含む全国民を対象とする芸術が起こり、活発に活動を始めた。文化の民主化には煽動芸術作品に思想的にも表現的にも、ある程度の一本調子加減が見られるのはやむを得ず、またポスター、木版画、催しもの、大衆演劇などといった新旧の大衆的ジャンルの利用が必要だった。

 当時、煽動的性格はほとんどの芸術につきものだったが、他の芸術に先がけて、ツァーリズム打倒の直後に新しい傾向を示したのは、それまで最も半官的で、職業的にも保守的だった芸術−モニュメント芸術、紋章芸術においてである。ロシアに生れ国との戦争がまだ終わってなく、フランス、イギリス、アメリカその他の資本主義諸国からの武力干渉が行なわれている中で、ソビエト・ロシアは、ほかならぬそれらの国々の進歩的活動家を尊敬し、手本としたのである。

 

マルクスとスペルドロフの肖像は1960−70年代に、後者はスべルドロフ広場に、前者は1920年につくり始められていた広場に建立された。

 

 肖像のかたちは、モニュメント・プロパガンダの展開とともに多様に発展していった。その若干の例が展示品の中に見られる。たとえば、無政府主義者バクーニンの像の下絵(彫刻家B・D・カラリョーフ)は、1918から19年にかけて、モスクワで発注、設立された大規模な一連の作品の典型を示している。ぺトログラード(1703年に建設された革命前のロシアの首都は、1914年までペテルブルグと呼ばれていたが、1914−23年の間はペトロダラードとなり、1924年1月末からはレニングラードとなった。首都は1918年3月に再びモスクワに移った)では当時、より数の少ない胸像シリーズと煽動的肖像レリーフのシリーズがつくられた。作曲家ムソルグスキーの胸像(彫刻家T・E・ザルカルン)と19世紀後半の労働者革命家ハルトゥーリンの肖像の着色レリーフ(画家H・I・アリトマン)は、その二つのシリーズの例である。

 

 国内戦の末期とその後になると、新しいモニュメントの計画は、材料の恒久性と建造期間の長さという点ではるかに大作といえるものになった。その例が、モスクワのマルクスの大肖像(彫刻家S・S・アリョーシン、建築家A・A・ヴェスニーン、V・A・ヴェスニーン)とソビエト・ロシアの初代元首Y・M・スペルドロフの大肖像(彫刻家V・I・ムーヒナ)の計画である。しかしどちらのモニュメントも、同時期の他の一連の計画と同じく、物質的な条件のせいで当時は完成できなかった*。 革命祝祭日の構成は、煽動芸術のもう一つのきわめて重要な形態であった。そうした構成は、さまざまな芸術分野を特別な−短期間的な一やり方で幅広く総合する条件を生んだ。普通なら副次的であるこの芸術分野の意義は、革命期に大幅に増大した、国内戦とそれにつづく復興期の厳しい日常生活の中で、祝祭日の構成は明るい未来への夢を具現化し、そうした夢の芸術化の独特なモデルとなった。祝祭の本質的特徴の一つである短期性は、他のモニュメント装飾芸術作品の不可避的な一時性と、有機的なつながりがあるとして受けとめられた。

 革命祝祭日の芸術に関連する面は、都市空間の構成と祭典行事の実行そのものとから成っていた。煽動芸術のあらゆる形態は、祝祭の参加者が積極的な反応を引き起こし、創造的で、できるだけ“芸術的が’自主活動を行なうよう刺激することを課題としていた。

 祭典の構成によって、通りや広場、個々の建物のいつもの様相をできるだけ変えることが目標とされた。古い町にさまざまな芸術によって独特な“未来都市”が・・・壮大な多層的なシンボルとしての、また芸術的手段で表現された、思想的、感情的プログラムとしての“未来都市”がつくりだされた。

 都市の造形的、色彩的装飾の手法は幅広かった。それは漸新な建築アンサンブルをつくりだした建築装飾ペトロダラードのH・I・アリトマンやM・V・レベジェフ、モスクワのV・F・クリーンスキー、ゲィチェブスクのUNOVISグループの作品など)から、伝統的な民族祝祭日の表現手段(ペトロダラードのS・V・チェホーニンの構成など)にまでわたった。町の表通りに掲げられた大きな祭典の壁画は、町の空間規模に合わせて描かれた新しい絵の展覧会の観を呈したこともしばしばだった(モスクワのA・V・クプリーン、ペトロダラードのN・A・トゥイルサ、I・A・プーニ、ヴィチェブスクのM・Zシャガールなどの作品)。

 

 20年代末になると、都市の祝祭形式は変化した新しい社会の建設を象徴するものとして、建造物や自動車をそっくりそのまま大規模な立体模型として用いることが流行し、社会主義建設の参加者やその敵対者のさまざまな姿の表現がそれらに加えられた。それは、ポスター的、印象主義的手法や、グロテスクなスタイルで描かれた社会の仮面だった。祝祭日のための特別の装飾的な“煽動建築物”が、10月革命10周年のために数多くレニングラードでつくられた。その一例に、蜂起広場の螺旋状の塔がある。この塔の足元には皇帝アレクサンドル3世の騎馬像を中に閉じ込めた鉄の檻が据えつけられていた(建築家 I・A・フォーミン)。

 

 革命の初期、実際の建築はほとんど完全に中断されたが、設計はかなり数多く行なわれた。設計には、イメージの刺激性、情動性への傾向が濃厚に貫かれていて、それは他の芸術の煽動的傾向と完全に一致していた。

 この傾向は、初期にはユートピア的建築物の分野で特によく見られた。しかし、やがて主流を占めるようになったのは、実用的な“煽動建造物”・・・多数の演壇、売店(キオスク)、展示館、記念建造物などの設計だった。これらの例としては、建築家L・M・リシツキーや画家G・G・クルツィス、K・S・マレーヴィッチ、N・M・スエーチン、I・G・チャーシュニクが作成した、演壇や煽動用設備の設計があげられる。古い建築物も、新しい演壇その他の小さな煽動建造物に見られるのと同じ様式でつくられた壁画や看板、ポスターなどといった新しい要素を導入することによって生れ変わった。

 

 画家V・E・タトリンの第3インターナショナルのモニュメントは、壮大な煽動建造物の計画だった。

 モスクワ、ペトログラード、キエフ、スヴェルドロフスクなどの大都市で編成され、国中をまわった煽動列車や煽動蒸気船は、煽動的なモニュメンタル装飾絵画を使用したまったく独特な分野となった。都市ではそれらと同じ役割を煽動市電や煽動自動車が果たした。この種の大衆煽動物は、それが動くためにもっともロマンチックで印象的なものとなった。

 都市を短期間訪問する煽動列車は、芸術的に見れば、大都市で芸術的に構成される革命祝祭日に現象的に似ていた。煽動列車や煽動蒸気船の編成内容は、それらの果たす目的やゆく場所によって左右された。この仕事をとりわけみごとに、人民芸術の精神に基づいて行なったのはウクライナだった。当時の人々にとって、ウクライナの煽動列車や煽動蒸気船は、農民の婚礼用長持ちや祝祭日の卵(復活祭の色つきの卵)にも等しかった。画家V・D・エルミーロフの下絵によって改造された煽動列車の車両(模型)の一つが展示品の中に入っている。祝祭日の活動そのもののもっとも組織化された形態は、むろん演劇である。演劇が都市空間で催され、都市のどこでもできるような特別な煽動演劇がつくられた。俳優たちは一日中地区から地区をまわり、煽動市電のプラットホームで上演した。しかし、もっとも注目すべきものとなったのは、大衆演劇、革命で生れたモニュメンタル演劇であり、その催しものには多数の出演者が、参加し、きわめて多数の観衆がそれを見たのだった。

 その他の煽動芸術の中で一風変わったものに煽動陶器がある。それは堅牢な材料と伝統的な名人芸によってつくられ、丹念な仕事と仕上げによって練り上げられた、かなり独創的な作品の制作を目指したものである。小皿や大皿、茶わんに、ポスター、煽動レリーフ、祝祭日用飾りつけの中で使われているのと同じスローガンや標語が書き込まれ、同じ主題の図が描かれた。もっとも陶器の場合には、初めから作品の寿命が長いこと、何回も人の目に触れること、注意深く調べられたり、鑑賞されたりすることが見込まれてつくられた。

 

 煽動陶器は、ペトロダラードの国立陶磁器工場(現在のロマノーソフ記念レニングラード陶器工場)で画家のS・V・チェホーニンの指導のもとで製造された。多くの下絵はチェホーニン自身の手になるものだったが、彼はまた多数の陶工を組織し、多くのことを教え、時には他の分野で働いていた有名画家たちをもこの仕事に引き入れた。初めは主として革命前につくられた半製品に絵が入れられていたが、徐々に新しい形の食器や小さな煽動彫刻物があらわれた。煽動陶器製造が最も躍進したのは1918~22年である。

 しかし、それまでさし迫った政治性が直ちに反映することのなかった伝統芸術に、煽動的傾向が強く働きかけたのは、陶器の場合だけではない。宣伝、煽動の傾向は、おそらく、新しいソビエト建築やデザインに、直接的ではなくとも深く影響し、その創造的な探究の方向を決定している。

 この傾向は、新しい芸術を総合するための基盤となった。個々の芸術作品の形式的分類はこの当時意味をもたないものとなり、一つの形式だけに分類するのがむずかしい作品がつくられる一方、国内戦の終結、平和的な建設への移行は、煽動芸術の分野における重要な変化や新しい傾向の誕生をもたらした。

 はやくも1920年の末には‘‘生産の宣伝”の全面的展開に関する決定が採択された。この決定の目的は、平和的建設への移行を全面的に援助すること、生産の知識や熟練を拡大、深化、強化すること、職業教育の発展を促進すること、すべての労働部門での先進的な経験を宣伝すること、などだった。新しい条件における煽動芸術は、生産の宣伝の手段の一つになった。

 それゆえ、20年代と30年代の境界における煽動芸術を検討するに当たって考慮しなければならないことは、この時期の煽動芸術は直接的な形態においてばかりではなく、間接的に、“非煽動的な’’芸術への影響を通しても機能していた、ということである。

 歴史的に見れば、革命によって生れたソビエトの煽動芸術は、ソビエト文化史上もっとも重要な過程であるとともに、20世紀の世界文化における根本的に新しい現象であった。

■ポスター

 ポスターは煽動、宣伝、広告の機能を専門とする芸術だが、革命前のロシアではあまり発達していなかった。革命の時期、紙不足や印刷所の破壊といった困難にもかかわらず、ポスターへの要求はきわめて大きく、ポスター芸術は急激な高揚をみせた。ポスターは通報し、煽動し、要求し、解説し、摘発し、嘲笑し、赤面させた。ポスターは建物の壁や塀から、商店のショーウインドーから、集まった群集の一人一人に、あるいは通行人に「敵はすぐ近くにいる!」、「助けろ!」、「君は志願したか!」と呼びかけた。ポスターには現実的なシンボル、アレゴリー、漫画、絵物語などが利用された。革命期のポスター芸術の大家はD・S・モール、V・N・デニ、N・M・コチェルギン、A・P・アイシトらである。

 革命ポスターの独特な形態は、詩人で画家のV・V・マヤコフスキーのイニシアティブと積極的な参加によって生れた。いわゆる「ロスタの窓」である。画家は電報で受けたテーマをポスターとして描いた。このポスターは直ちにステンシルで印刷され、市内に展示されたり、列車に積み込まれて各地に送られた。この方法は、当時極端に不足していた活版印刷物の代わりとなっただけでなく、市民にポスターが届く時間を著しく早めた。このポスターの第2版は活版印刷で発行することもできた。その印刷方法からして、「ロスタの窓」では、普遍的で、簡潔な描写、最大限に表現力のある言葉が特徴であった。画家(絵の作者ならびに製版の職人)の手仕事の中で、マヤコフスキーは彼自身が1910年代に積極的に参加した筆写本、あるいは石版印刷による未来主義の本の発行という革命前の経験を新しいレベルで利用した。モスクワの「ロスタの窓」の有力な画家はマヤコフスキー自身であり、M・M・チェレムヌイフ、I・A・マリュチンらだった。ペトロブラードではV・V・レベジェェフとI・V・コズリンスキー、スモーレンスクではL・M・リシツキーが有力であった。

 ステンシルによる印刷ポスターに、住宅を含む室内の装飾、さらに目で見る教化的なテキストとしてつくられたサイズが小さいポスターである「木版画」が加わった。ソ連の木版画は革命前の「民衆画」を直接受け継ぎ、主に内容の面で変化していた。ソ連の木版画の最も代表的な画家はA・E・クリコフである。

 革命期の印刷ポスターと「ロスタの窓」は、20年代における広告・宣伝ポスターの大量印刷の高まりの土壌と、20年代と30年代の境界における大衆的な政治ポスターの新たな高まりとの土壌を形成した。20年代の政治ポスターを文化ポスターや広告ポスターから厳密に区別してはならない。これらすべてのポスターはソビエト権力と新社会の伝達者であった。ポスターは文字の読めない民衆の一掃(E・S・クルグリコーヴァとA・A・ラダコフの作品)、生産の機械化(A・A・デイネカの作品)、社会生活における婦人の役割の活発化(A・I・ストウラーホフの作品)などを呼びかけている。広告ポスターは本や雑誌を宣伝した(A・M・ロドチエンコ、V・F・ステパーノヴァ、V・V・マヤコフスキー、M・V・ドブロコフスキーの作品)。これらは大半が絵の描かれたポスターで、一部が純粋に活字と植字(A・M・ガン)あるいはレタリング(G・I・ナルブト)によるポスターだった。20年代半ば頃から合成写真(フォトモンタージュ)がポスターに現われる。この場合,写真の部分は組合せが強調されて絵の部分と対比れている。1920~30年代の境界における、合成写真での政治ポスターの大家はG・G・クルツィスであった。

 

 演劇や映画の広告ポスターは広く普及した。これらの分野はポスター芸術の特にすぐれた手本を生みだした。機能は一致していたものの、演劇ポスターと映画ポスターでは相対的に異なる構図が生れた。あるいはこのことは、演劇ポスターが通常、演劇人自身によって制作されたのに対して、映画ポスターでは画家が映画人の作品を解釈してつくったことと関係があるかもしれない。

 演劇ポスター(展覧会にはA・A・エクステル、B・M・クストジェフ、V・M・ホダセーブィッチ、H・P・アキーモフのポスターが出品されている)は、単なる演劇の図解ではなく、それの一つの「続き」であった。映画ポスターでは、具体的な映画の描写による暗喩をつくりだすことが画家に要求された。しかし、どうやら当時の画家は、(具体的作品よりも)映画芸術の暗喩をつくることの方を望んだらしい・・・この時代の優れた映画ポスターは、ポスターと映画の手法の一致や比較に基づいて、“動く”芸術の主題が何であり、写真がその描写の基本となっていることを伝える力をもっている。展覧会に出品された映画ポスターのコレクション(A・M・ロドチエンコ、V・A・ステンべルグ、G・A・ステンべルグ、A・M・ラヴィンスキー、N・P・プルサコフ、S・A・セミョーノフの作品)は、ソビエト芸術のこの部門をよく反映している作品から成っている。

■デザイン

 ロシアのデザインに関して(建築に関しても)基本的に重要なのは、絵画の分野における前衛との結びつきの問題である。この結びつきはかならずしも明確となってはいないが、疑いの余地はない。さらに、その相互関係の性格は時代によって変化している。

 周知のように、革命前のロシア芸術には、いくつかの目的のはっきりしない傾向が生れた。当時、これらの傾向には、人間をとりまく事物の改造という思潮はまだなかったが、すでに将来におけるそういった活動のある種の可能性は含まれていた・・・たとえば、使用する材料の特質から出発した環境的事物の形成(V・E・タトリン)あるいは形態の簡素さと簡潔さ、基本的な形式的要素を減少させる傾向である(K・S・マレーヴィッチ)。

 

 1913年から1915年にかけて、画家のK・S・マレーヴィッチは、抽象絵画の独自な言語−あらゆる絵画思想を基本的な幾何学的形態と、主に黒、赤、白から成るいくつかの色の配合を通してあらわすシュプレマテイズムを提起した。当時すでに、彼の信奉者たち(L・S・ポポーヴァ、O・V・ローザノヴァ、N・A・ウダリツォーヴァなど)は、「シュプレマテイズム的」な婦人服や刺繍の下絵を描いていたが、K・S・マレーヴィッチ自身は実用的な課題からは遠く離れていた。1913年、画家のV・E・タトリンは、「眼に対する不信を宣言し」、鉄、ガラス、木、モルタル、ボール紙、的に配合する抽象的作品のシリーズが、タトリンは、この作品を「素材の組合せ」、眼を「触感の監督下に置いた」・・・1914年、針金などによるさまざまな形態を集めて空間的に配合する抽象作品のシリーズが、夕トリンによってはじめて実現された。タトリンは後に「反レリーフ」と呼んだ。タトリンは木の板や鉄といった材料と、さまざまな既成品やその断片(ノコギリ、ガラスのコップ、パイプ、鉄製の容器など)とを合体させ・・・そして部分的にペンキ、粉、ススを塗り、すべてを一つのものとして組み合わせたのである。個々の組合せにおける構成要素の数は、それほど多くはなかった。

 

 タトリンのこの材料の組合せに、ヨーロッパの人間は日本の「いけばな」とのいくぶんの関連を見いだすように思われる。すでに1914年のタトリンの展覧会を見て、批評家が劇場の舞台装置のモデル(当時、劇場にこれに似た装置はまったくなかった)としてこれらの作品が利用できる可能性を指摘していたことは興味深い。

 革命直前の時期、革新的な美術家たちは印刷技術や実用的な線描の大衆的でユニークなもののための新しいアイデアを数多く提案した。彼らは、舞台装置に新しい時代を開き、劇場を環境についての新しい造形的感覚の宣伝のために利用した。彼らは、彼らと人々との新しい相互関係に基づく未来の建築、技術、生活様式を描いた幅広い予想的なユートピアを主張した。インテリアの新しい総合的なデザインの試みも、基本的に重要なものであった。その数少ない見本の一つがモスクワの芸術家のカフェ「ピトレスク」(1917年、オープンしたのは18年初め)の内装である。この仕事にはG・B・ヤクーロフの指導のもとに、ソ連の将来の生産芸術と装飾芸術の多くの担い手(V・E・タトリンとA・M・ロドチエンコも含む)が参加した。

 前述した諸事実は、1915年にマヤコフスキーが行なった次の綱領的な発言とその意味において一致している。「われわれは、われわれの綱領の最初の部分・・・破壊を完了したと考えている。だからこそ、もし今日われわれの手の中にピエロのがらがらの代わりに建築家の図面を見たとしても、驚かないでもらいたい」

 革命後、多くの美術家は絵画や彫刻における抽象的な創造を、美術の表現方法の見直しの必要性と結びつけ、後には個人生活と社会生活に奉仕する伝統的な物体と新しい物体のために新たな形態をつくることの必要性と直接結びつけている。

われわれに新しい形態を!号泣が聞こえてくる

 われわれにとって最新の芸術学が「絵画からデザインへの運動」と正確に述べている、明確な目的を持った芸術活動の段階がはじまった。その積極的な参加者となったのが後に各芸術分野で「構成主義者」の重要人物となった人々である。美術家のL・S・ポボーヴァ、A・M・ロドチエンコ、V・F・ステパーノヴァ・G・B・ヤクーロフの教え子で、おそらく「構成主義者」という用語を最初に使用したと思われるステンペルグ兄弟、K・K・メドゥネーツキー、革命前には著名な建築家として知られ、この時期には劇場芸術家であったA・A・ヴェスニーン、ペトロダラードの美術家V・V・レベジェフ、L・A・ブルニ、P・V・ミトゥリッチ、ハリコフのV・D・エルミーロフなどである。モスクワでは絵画と実験的構成作品の展覧会が開かれている。この運動の積極的な参加者V・F・ステパーノヴァ(ロドチェンコの妻)は次のように書いている。「その当初から、抽象的創造は分析によって進んできた。この新しい運動は、まだその総合を示していない・・・しかし、総合ではなく、分析と創意が新しい道を開くのだ

 この時期、実験的絵画と空間構成作品は作者たちによって「物体」、しかも「自立した意義をもつ」物体、具体的な機能とは“まったく”関係のない物体の一種のモデルと考えられていた。しかし、すぐにこれらの美術家たちは、機能においてもっとも日常的な物体・・・布地、衣服、食器、建築の創造にとりかかるようになり、他の美術家たちにも加わるよう呼びかけた。創造の概念「構成主義」と理論上の概念「生産芸術」がこの運動で統合した。この二つの概念は、タトリンの創造的経験にかなりの程度依拠しながら、1920年末から22年初めにかけてモスクワのINKHUK(クルドゥスヴェンヴェンノイ研究所)で育ち、発展した。

 これらの思想の誕生と展開は、実生活での客観的な必要性や、それの具体的な歴史的段階での特徴と密接に関係している。革命は、消費者の数を質的にも、量的にも急激に変えた。実施された生活の民主化は、品物、主としていわゆる必需品に対する需要の大幅な伸びを惹き起こした。その後の進展は新たな機能の品物を要求した。他方では、戦争と革命、それに続く内戦、外国の軍事干渉、深刻な経済の破綻、外国の経済封鎖が、それまで国内にあった物の在庫の大部分を物理的に消滅させた原因となった。これと同じ原因で、再生産のプロセスもほぼストップした。極端な物不足が発生した。

A.ロドナエンコ ロドチエンコ、マヤコフスキー「キャラメ′レの包み紙」1920年代中頃

 「芸術を生活の中に」、「芸術を生産の中に」というスローガンは革命の時期に自然に生れ、それはなによりもまず、新しい生活のあらゆる側面への芸術家のこれまでよりはるかに積極的で効果的な参加を暗示していた。芸術家の伝統的な社会的機能と役割に変化が生れた。

 1920年末、物的生産の高揚を促進する使命を担った「生産の宣伝」が政治課題として打ちだされている。と同時に、生産という基盤から美術教育が改良されている。伝統的なタイプの美術学校の代わりに、国内の一連の都市に「美術・技術学校」がつくられた。これらの学校の中で中心的な位置を占めたのは、VKHUTEMAS(1920-26年)それを引き継いだVKHUTEIN(1927-30年)で、美術教育の新しい方法の作成において大きな役割を果たし、さまざまな専門分野の美術家と建築家を数多く養成したモスクワの教育機関である。

 

 しかし、当時、生産への芸術家の本格的な進出は、生産の状況から見て時期尚早であった。煽動と宣伝が芸術の基本的な社会的機能となった。この段階でほ、芸術と生産の接近の必要性そのものが宣伝上のテーマとなった。新しいタイプの生活用品、新しいタイプの建築やまったく新しい社会的機能をもつ建造物の設計コンクールを通して、新しい生活様式、新しい世界観と芸術思想の宣伝が行なわれた。

■生徒の設計コンクール・作品例

 ソビエトロシアにおける新しい社会制度は、生産と消費に関する倫理問題を鋭く提起した。新しい倫理思想は、人びとの集団主義と同志的相互関係、意識的に採られた消費の理窟にかなった制限、あらゆる剰余分の原則的拒否、倫理的のみならず独自の情操的規範としての生活の外観の簡素さをその中に含んでいた。このようなモラルは時代の精神を反映していたが、これはまた、ロシアの民主的知識人の古い道徳的伝統にも合致していた。単純化や一元化が理想ではなく、実利一点ばりの生活から知的・精神的で、社会に積極的なそれへと重心を移動させようとしたのである。

 「現場」の美術家たち(彼らも構成主義者たちであった)は、時代の精神に最大限応えようとした。構成主義者たちの創造活動は、20年代のソ連のデザインの分野と、環境の多様な対象の新しい設計の開発にとって、きわめて重要でかつ原則的な寄与をしている。構成主義者たちは、新しい家具やインテリア・デザインのサンプル、衣服や布地のサンプル、新しい食器、印刷、ポスター、合成写真、建造物、舞台装置の模型をつくりだした。彼らの作品は、目的志向性、合理的な構造、材料とその加工技術の有機的な関連、品物の使いやすさ、形の単純化、多くの場合において色彩の果たす積極的な役割の追求が、決定的な特徴となっていた。

 「構成主義」という言葉が広く普及したが、それはいくつかの意味で使われた。まずこの言葉は、1921年に生れた構成主義の美術運動とはかかわりなく、文学(1923年から)と建築(1925年から)における二つの独立した潮流の名称となった。後にこの言葉は、20年代のソ連の芸術におけるあらゆる革新的現象を普遍化するために利用されるようになり(10年代には、同じ意味で「未来主義」という言葉が使用された)、ソ連の芸術における「20年代のスタイル」を指す形態論の用語として使用されるに至った(科学的な意味では、この言葉の使い方は正確さに欠けている)。構成主義の創始者たちは、この用語で創造グループを、ましてや形態論的な流れを指したのでもなく、実際の機能をもつ対象の形成のためのある専門的な芸術方法を暗示したのである。

 構成主義は、20年代の生産芸術・・・社会的で有益な効用をもつ対象の生産と結びついた芸術の高揚と優位を主張する社会学的・情操学的理論・・・の名で知られる芸術運動と密接に結びついていた。生産芸術の理論家たち(B・アルバートフ、0・ブリク、A・ガン、B・クシュナー、N・タラブーキン、S・トレチャコフなど)は社会的・技術的目的をもった美学をつくりだし、計画的に宣伝した。また新しい建築や新しい対象が生活改善の重要な手段、そしてブルジョア的・プチブル的見解との闘争において重要な道具となるという生活設計論を打ちだした。この生産芸術のロマンチックで空虚なユートピアは当時多くの人をひきつけ、とくにマヤコフスキーの支持は目立った。彼が指導していた雑誌『LEF』(1923-25年)と『新LEF』(1927-28年)は生産芸術と芸術構成主義の思想の主要な宣伝誌であった。

 ソ連のデザイン学における革新運動の二つの主要なセンター間を結合する、一種の ちょうつがいの役割を果たしたのが、ソ連の著名なデザイナーL・M・リシツキーである。ゲィチェブスクのウロビセヤ実用美術研究所でK・S・マレーヴィッチの身近なスタッフであったリシツキーは、シュプレマテイズムを独創的に解釈し、その付加物の範囲を広げたいわゆる「PROUN」「プロウン」と呼ばれる実験的仕事を実施した。後にリシツキーの創造には構成主義の多くの要素が吸収された。デザインのもう一人の大家G・G・クルツィスもまた、二つの傾向の諸原則を自己の仕事の中で結合させた。

■プロウンシリーズ

 

 構成主義以上にシュプレマテイズム(絶対主義、至高主義)の方がデザインの問題に近づいていた。シュプレマティストたちは、あらゆる具体的機能はある組合せに還元されると、彼らの考える、その組合せのための形式的要素の体系をつくりだした。カンヴァス絵画から建築や生活環境の物体への移行において、この体系は一種の統一した基盤としての「シュプレマテイズム的な命令」(K・S・マレーヴィッチの表現)という意味を帯びていた。シュプレマティストたちにとっては、形態を決めないままでの材料へのアプローチはまったく無縁のことで、素材は最終的に芸術家の創造力に従属しなければならなかった

 構成主義の理論家たち(たとえばアルバートフ)は、二つの傾向の発生を異なる継承路線一構成主義が、セザンヌ=ピカソ=タトリン=ロドチエンコ、シュプレマテイズムが、ゴッホ=マチス=カンディンスキー=マレーヴィッチとして定義づけ、シュプレマテイズムはその原則から見て生産芸術のあらゆる課題からかけ離れていると考えていた。しかし、彼らは間違っていたのである。現代のデザインと建築の発展に対するこの傾向の寄与は根本的で重要なものであり、20世紀における形態とスタイルの基本に触れている。この傾向の美術家たちのグループはそれほど大きくはなかったが、かなり安定していた・・・マレーヴィッチの他には、リシツキー(1919−21年)、N・M・スエーチン、I・G・チャーシュニク、V・M・エルマラーエヴァらがいた。彼らの作品のスタイ/レの共通性は、傾向全体のとくにはっきりした側面を示していた。

 VKHUTEMASやVKHUTEINでは生産学部(こ金属加工、木工、セラミック、繊維、印刷)が生産とその後の教育活動のための「技師=美術家」を養成した。VKHUTEMASは芸術の総合の独自の組織であったが−ここではあらゆる専門の将来の芸術家たち(画家、彫刻家、建築家、専門労働者)が最初の2年間は一緒に学び(いわゆる教養部)、上級の専門課程でも共通の課題、あるいは共通の関心によって交流が続けられた。この方法によって専門教育は芸術全体およびその個々の分野の課題に関する教育を結合し学生の一般的、専門的知識の範囲が拡大された。これまでに蓄積された知識を教える伝統的な学校とは異なり、VKHUTEMASやVKHUTEINの生産学部は、生れたばかりの新しい専門知識や生産技術を教え、学生たちを自分たちの将来の職業に精通させようとしたのだった。

■VKHUTEMASやVKHUTEINの実習教室

 1920年代、ソビエト・ロシアでは人間を取りまく対象の世界が根本的に変わった。このことは、革命前につくられた、あるいは革命前の見本を反覆した対象や建造物が量的には優位を占めていたのにもかかわらず、なお明らかである。対象の性格も、社会的、思想的、経済的、技術的、文化的な大きな変化の結果、変わった。