建築

■建 築

 他の芸術に特徴的である革新的な形式、美術的な探求は、革命前のロシア建築には無縁であった。ロシアでは構造的、建築的改良や、機能的改良が発展的に続けられ、その時代に固有の住宅(賃貸住家、廉価なフラット、ぜいたくな独立家屋)のタイプと、公共的な建築(公共浴場、商店、駅、はじめてのスポーツ施設等々)のタイプの設計の他は、設備や快適性の改良が主だった。こうした全般的な合理化路線がようやく第二面に置かれ、建築の様式的特徴の探求が前面に出てきた。

 19世紀から20世紀の境目に、”近代的”タイプ(F・O・ショフテリやL・N・ケクシェフ、 V・F・ヴァリコツトらの建築家たち)の短期間の全盛があり、1910年代には、18世紀末から19世紀初頭のロシア建築のモチーフや、ルネッサンス、特にA・パラディオのモチーフを改良した新古典主義の強力な波がそれにとってかわった。この流れは、画家のグループ「芸術世界」と接近し、同調した。I・V・ジョ/レトフスキーやI・A・フォーミン、V・A・シチューコ、A・I・タマニヤン、ヴェスニーン兄弟ら、未来の著名なソビエト建築家がこの傾向の指導者たちだった。当時、新古典主義とは一致しないが、美術的理念の復古性では似ている、12世紀から18世紀のロシア建築の遺産を支えとした民族的ロマン主義の方向も発展していた。この方向の偉大な代表がA・V・シチュセフだった。

 第1次世界大戦と革命、そしてそれに続くさまざまな事件は、実際的な建築活動をほぼ止めてしまった。しかし、建築は社会変動や、新しい、しかし全体的にはまだまったく明白ではない建築の課題のために、さらに革命前の建築の強固な保守主義のために、もっとも急激な刷新が要求されているという考えが成熟した。設計コンクールや専門教育などで、また祝祭日の都市の飾りつけやモニュメント、演壇の設計や臨時建造物などで建築の新しい型や新しい概念が模索された。

 特に美術家が建築に対して急進的に同調し、彼らのうちの多くが、例外的な“紙の建築”が存在した1917年から1922年の間に起きた建築刷新に積極的に寄与した。たとえば、何人かの画家や彫刻家や建築家が、絵画と彫刻、そして建築の総合を基とする新しい建築一芸術の新しい形態を創造するという課題を立てた「ZHIVSKULPTARKH」と称するグループに合流した。「ZHlVSKULPTARKH」のメンバーは、機能的な要求や構成上の制限、わけても経済的な制約にしばられないで、建築設計の方法を刷新するために、非現実的で空想的な設計思想を意図的に打ち立て、また建築を根本から新たに樹立することの探求のために、“ゼロから”始め、古いものとはまったく似ていない現代の精神に合致したものを打ち立てようとした。

 美術家のV・E・タトリンが1919−20年にかけて計画したコミンテルンのモニュメントは、実験的建築の偉大な作品となった(1919年に設計され、3人の助手とともに1920年の11月までに模型を完成)。タトリンは、もっとも大きな歴史的事件の記念として、それを賛える碑を建てた古代ロシアの伝統を復活させて、半ば空想的な建造物モニュメントを設計した。この場合、果断でそして全面的な刷新が設計の概念と形式を決定した。タトリンは、400メートルの螺旋状の塔を建設することを考えた。この塔の金属の骨組みは外側に露出させ、複雑な立体的、空間的構造をとるようにした。骨組みの内部には、独立した四つの立体を数珠繋ぎに吊す。これは、立方体、ピラミッド型、円筒形、半球の四つの大きな独立した建造物である。そして骨組みの中に吊された各立体が、それぞれの速度で軸を中心に回転するように運動学的に設計されていた。

 タトリンの考えでは、この建造物は、もっとも深い思想的意味をもたなければならなかった。その意味とは、社会主義革命とそれをスローガンとしてコミンテルンに結集する全国民を象徴することである。この作品を中心にして起こったきわめて激しい論争にもかかわらず、擁護者も敵対者もその作品が内容とするまったく宇宙的な壮大さを感じ取ったのだった。「タトリンの塔」は、新興ソビエトの建築の形成と20世紀建築の全体をいいあらわしている

 これを簡単にいえば、ソビエト建築の二つの基本的な刷新方向のうち、ZHIVSCU−LPTARKHの中には、あまり正確な呼び名ではないが、“合理主義”といわれるひとっの方向が生れたが、「タトリンの塔」は一連の中間段階を経て、建築の“構成主義”である第二の方向の形成へと導いたのである

 

 “合理主義”の同調者らは、1923年にグループASNOVAを結成し、N・A・ラドフスキーが指導者となった。ASNOVAのメンバーは、新しいソ連建築は一定の功用的機能の必然的な結果としてその形式を獲得することはできないと考えていた。このメンバーは建築作品の精神分析的方法を開発した。この方法によると、形式は機能的要求や視覚的知覚と心理的知覚の特殊性、それと写実的な美術の表現力を総合的に考慮することの上に生れる。K・S・メーリニコフやL・M・リシツキーなどのような建築家が、多くの点でASNOVAの見解と同じくしていた。この概念は、1920年未からラドフスキーとその同志らによってVKHUTEMASの教育の基礎とされた。

 

 構成主義派は、A・A・ヴェスニーンとM・Y・ギンズブルグを指導者として、1925年、OSAに組織結集された。構成主義派は機能的方法を信奉した。これによると機能とは、具体的な効用性と社会的な需要の複雑な集合体として建築形成の基礎になるものとされる。建築の構成主義派は、簡単な幾何学的図形を用い、それぞれが自らの機能を包含する、互いに関連した立体の集合体として建築を決定するのを好んだ。その考えを徹底するあまり、指導者A・A・ヴェスニーンや若いI・I・レオニードフが天才的な画家であったにもかかわらず、時々、構成主義派のメンバーたちは芸術否定に走った。構成主義派のメンバーたちは、ASNOVAのメンバーたちを“形式主義者’’として徹底的に批判した。

 

 OSAとASNOVAの創作競争は、建築刷新の全般的な状況を豊かにした。構成主義者たちは、その観点からして全ヨーロッパ的機能主義に近く、創造では建築の実際的な側面に関心をもち、また建物の集合タイプを志向した。合理主義派たちは、よりロマンチストであり、それぞれの設計で必ずなにか新しいものを付け加えたがり、それまで建築で一度も利用したことのないような形を好んだ。

 室内でのみの建築実験の期間は1922−23年までに終了した。実際の建設が着手されはじめるとともに、すべての設計が直ちに実行に移された。モスクワの〈労働宮殿〉の設計コンクールが建築の方向を決める転換点となった(1922−23年)。ヴェスニーン兄弟の設計は、保守的傾向の審査官がより伝統的な三つの設計を選んだにもかかわらず、大きな感動を呼んだ。ヴェスニーン兄弟はいろいろな設計作品をさらに幾つかのコンクールに出品して成功し、中でも〈レニングラード・プラウダ〉の建築の設計は抜きんでている。彼らは初期には労働者会館や百貨店などあまり大きくはない施設を建てている。ヴェスニーンの構成主義は、<ドニエプル水力発電所(1931年、V・A・ヴェスニーンとその集団)、〈革命運動徒刑者会館〉(現在モスクワの映画俳優劇場)、〈自動車工場文化宮殿〉(モスクワ、1931年に礎定)などの設計を生み、20年代のソビエト建築の化身として当時の人々に迎えられた。

 

 もっとも大きな存在として、革新建築の他方の実にあったのが有能なメーリニコフである。メーリニコフの建築はきわめて現代的であるが、その場合常に個性的であり、自己の動的な表現力で知られている。メーリニコフは、木造展示パビリオン(1923年モスクワの農業展示会、1925年パリの国際装飾芸術展)の設計を手はじめにし、それらの仕事によって広く注目を浴びるようになった。続けて、メーリニコフは、格納庫のシリーズ、労働者会館のシリーズ、個人住宅などを設計して実現し、一連の設計コンクールで成功を収めた。他のいかなる建築も、メーリニコフのほぼすべての設計と建築のように関心をもって迎えられ、専門家たちや広範な世論の間に激しい論争をまき起こしたものはない。

 

 I・A・ゴーロソフの仕事は、創造的手腕の独自性が光っていた。その初期、ゴーロソフはメーリニコフと共同し、一定の影響をメーリニコフに与えたが、その後、影響はおそらく反対になったかもしれない。ゴーロソフのもっとも有名な仕事は、〈労働宮殿〉やイワノフ市の〈レーニン記念国民の家〉、〈ズーエフ記念会館〉、一連の住宅施設などである。ゴーロソフは、20年代の末には構成主義派に接近している。構成主義への志向は概念的であるとは限らザ、主として様式的であり、この時代にはほぼ一般的な性格を帯びていた。I・V・ジョルトフスキー、A・V・シチュセフ、V・A・シチューコ、G・B・パルヒンらの年長世代の建築家たちもこの方向の精神で成功している。

 建築の新古典主義的路線が決してとぎれることのなかったレニングラードでは、A・S・ニコーリスキーが構成主義者のグループを指導していた。ニコーリスキーの構成主義は正統派でなかった。そして「ZHIVSCULPTARKH」の表現主義的な影響やシュプレマテイズム的マレーゲィッチ建築の洗練された禁欲主義を自己に吸収していた。

 マレーヴィッチは、建築上の構成主義全体に影響を与えた。マレーヴィッチのグループは、20年代の全期間を通じて実験建築に関心をもち続けてきた。はじめはヴィチェブスクで(1919−22年)、続いてレニングラードで(1923−35年)。ヴィチェブスク時代に、このグループからリシツキーのPROUN(リシツキー自身が「絵画から建築への乗り換え駅」と呼んだ)や舞台装置やモニュメント、空想的な都市計画が生れた。マレーヴィッチは、「課題としての建築」と「生活における建築」を絶えず区別していた。そして前者に関心を向けてきた。レニングラード時代にマレーヴィッチは、N・M・スエーチン、I・G・チャーシュニク、L・M・ヒデネルたちとの協力で「シュプレマテイズム立体構築」を基に、シュプレマテイズム絵画の要素を立体・空間形式へと転換させる、実験的な設計とモデルをつくりだした

 20年代の末にはソビエトの“紙の建築”というユニークな現象が瓦解(がかい・屋根の瓦の一部が落ちればその余勢で残りも崩れ落ちるように、物事の一部の崩れから全体の組織がこわれてしまうこと)した。この現象は、空想的建築の巨匠であり、教育者でもあった建築家Y・G・チェルニホフ(チェルニホフは技術教育施設で教えていた)の才能が開花させたものだった。チェルニホフは、“左翼”芸術の広大な資源をそれに順応させた(その資源はほとんどロシアでつくられたものだった)。チェルニホフは、さまざまな建築形成とデザインの分野で、また教育学的方法論のレベルで“左翼”芸術の寄与を積極的に利用し、それを作品化した。

 

 モスクワのVKHUTEMAS,VKHUTEINの建築科は、当時の建築界で圧倒的な意義を獲得していた。最良の建築家たちが教育者としてここに結集した。学習設計の目的は、“未来をながめる”という実践上の要求と結びついていた創作競争の精神が非常に発展した。その結果、当時の VKHUTEMAS,VKHUTEINの多くの学習設計は、事件として迎えられ、現代建築の歴史に刻印されるに至った。その例として、I・I・レオニードフ(A・A・ヴェスニーンの教え子)やG・T・クルチコフ(N・A・ラドフスキーの教え子)の卒業設計・・・ソビエトばかりか、外国でも有名となった〈レーニン記念図書学研究所〉の設計、当時としてはむろんユートピアであり、現在では現実のものである“宇宙遊泳都市”の設計などを挙げることができる。

 建築作品の向上は、すぐれた作品においては当時のわが国の実質的な生産力をはるかに追い越していた技術思想にも刺激を与えている。例として挙げるとすれば、技術者、T・M・マカーロヴァの発明した双曲放物面型の覆いである(1928年の6月、特許番号5568)。周知のように、この形は、当時よりずっと後ではあるが、世界の建築の中で広範に広がり、急速に発達した。

 1920−30年代の変わり目に、新しいソビエト建築が大きく高揚している構成主義派、LEF、「10月」のグループは、建築が全芸術の中で指導的立場に立たなければならないと考えて、“建築のヘゲモニー(覇権・特定の人物または集団が長期にわたってほとんど不動とも思われる地位あるいは権力を掌握すること)”を強化している。この時期までに、さまざまな都市で多数の新しい村や町が建設され、集合住宅、労働者会館、公共食堂、各種の公共施設や行政施設の建物などが建設された。最大規模の建設として、〈ドニエプル水力発電所〉(V・A・ヴェスニーン他、1929−31年、ハリコフ市の〈国家産業複合体〉(S・S・セラヒモフ他、1925−35年)、〈プラウダ社屋〉(I・A・ゴーロソフ、1930−34年)、<モスクワ自動車工場付属文化宮殿〉(ヴェスニーン兄弟、1931−35年)、〈ロストフ・ナ・ドヌー市の劇場〉V・A・シチュコ他、1930−35年)、モスクワ地下鉄建設の開始等がある。この時代の独特な芸術的成果であり、ソビエト建築のシンボルであるのは、赤の広場の〈レーニン廟〉である(A・V・シチュセフ、1929−30年)。

 しかしながら、多くの要因によって建築創造の方向に変化が生じ、それが次第に大きくなってっていた。これは、建築形態の単純さと不快さによる新建築に対する広範な国民大衆の不満、表現上でも国際的な建築に似たものを世論が希望していること、ソビエト芸術の他の分野での経過、権威ある年長世代の建築家の大半や彼らの若い教え子たちの一部の立場、世界の建築界の様式の傾向などなどが原因となっている。

 過渡期の建築にはっきり反映したのがモスクワの中央公共建物・・・〈ソビエト宮殿〉(1931−33年に幾つかの段階を経た)への大規模な国際設計コンクールであった。このコンクールで、よりモニュメンタルな、正統的な建築への伝統があらわれ、次第に強くなった。また多くの設計の中で、歴史的形式の利用、絵画と彫刻の諸作品による建築の充実への転換が認められた。

 これは、構成主義に対する独自の反応であった。〈ソビエト宮殿〉の設計コンクールとその結果(B・M・イオファンとV・A・シチュコさらにV・G・ゲリフレイフの設計が選ばれた。この建設の開始は、1941年、戦争の勃発によって中止された)は、30年代中頃から50年代中頃までのソビエト建築の新しい段階の方向性を決定したのである。

 

A.A・ストリガリョフ (建築理論・建築史研究所部長)