創り出す心

■前書き

三田村有純(みたむらありすみ)

 日本から日本人が消えようとしている。日本はどこへ向かうのであろうか。日本の家屋は紙と土と草でできていた。夏の高温多湿、冬の冷温乾燥の自然環境にはその素材が呼吸をして、人に優しい住環境を与えていた。

 私が生まれたのは昭和24年、東京都杉並区の西にある久我山というところである。当時住宅街だったが、畑も残り、松林もあり、少し離れた川(湧き水でできている井の頭公園の池から流れ出る小さな川)に行くと、ザリガニがあふれていた。夏になるとたいして広くはない庭にある三本の松の木に蝉が群がり、うるさくて追い払う時を過ごしていた。

 その庭には漆の木が三本あった。大きな漆の幹に傷をつけて漆液を大事そうに集めている祖父や父の姿を眺めて育った。

 

 井戸水を汲んで、火をおこしてご飯を炊く。家族は毎日火と水の神様に感謝をしていた。実はこれらはついこの間の私たち、日本人が当たり前にしていたことである。私は小学生の低学年まで「ひふみ」の生活をしてきた。「ひふみ」とは一二三であり、火=陽、風、水である。

 朝起きるとポンプ式の井戸でまず井戸水を汲む。割っておいた薪をへっついにくべて、燃えやすい経木などにマッチを擦って火をつける。その火を赤くするために火吹き竹を使って風を送る。そしてお湯が沸き、ご飯も炊けるのである。朝起きて日輪様に手を合わせ、水を汲み、風の力で火をおこす。大地の恵み、海の恵みを料理して朝ご飯を頂く。この毎日の営みは何千年と変わらなかったのである。

 私はこの言葉(ひふみ)を父から教わった。これこそ仏教でいう五つの要素、五輪の「空風火水地」の実践ではないだろうか。後に寺院の五輪塔を見て形と言葉が表す世界を感じ取るのであるが、小さい時から自然界を構成しているものとして「くうふうかすいち」と唱えてきた。

 祖父も父も自然との関わりを大事にしていた。二人の作品にはそのことが大きなテーマとして掲げられている。「自然の恵み」と「再び蘇る生命」である。祖父の作品は花が終り、種がついた画面、父の作品は蝶やミツバチが花の命を司るということで、花に集まる昆虫との関わり画面構成していた。いずれも自然への畏敬の念があふれているのである。

 家の軒先に吊されていた橙や瓢箪、の古木や南天の枝などが、二人の手にかかると生き返り、永遠の生命を持つ漆器に変わるのを見ながら、本当に新しい文化創造はここから始まるというのを体感してきた。そして私自身も小さなときから自分の箸を削り、桐の古木で箱を作ることを教わってきた。

 今は世界中でグローバルという言葉が一人歩きしている。国際化という名のもと若い人たちは、どこの国の人も、どこに住んでいても、均一な体験を重ねる中で、同じような価値観を持つようになってきている。

 衣食住のみならず、季節ごとの行事でさえグローバル化している。このグローバル化の根本は日本は全くない。洋魂洋才となってしまっているのだろうか。お隣の中国でさえ、クリスマスとバレンタインは若者たちにとって大事な行事である。江戸時代までの和魂和才、明治時代の和魂洋才はどこに行ってしまったのであろうか。

 日本人の感性を創り上げてきた漆の器を使うという食文化も無くなろうとしている。使う人いなければ、作る人もいなくなる。もちろん間に入って売る人もいなくなる。これが現状である。もう材料も道具も確保することができなくなる時がすぐ目の前に来ている。

 今の日本人の中に日本がどうも無くなろうとしている。グローバル、インターナショナルな社会になるからこそ、日本を語り、日本文化の本質を次世代に伝えることが重要になつてくるのである。

 これから日本に育つ方々が、新しい日本を創っていくときに拠りどころとする日本文化の」について、私はさまざまな観点から語っておきたい。私が幼少期から多くの方に敢えていたいたこと、世界各地を歩いた中で、文化比較しながら考えてきたことを記していく。

 日本の歴史を読み解くことで新しい未来が開かれていくことも重要な点である。これは振り返れば未来であり、過去の中にこそ人が学ぶべきことが隠されているからである。

 自然の中で生かされていることに感謝をし、万物に神が宿っているとの思いを共有しながら、世界の中での日本の立場を、芸術を通して再び創り上げていきたい。


■芸術の力

 2011年3月後半、東北地域から関東までを襲った衝撃のニースを朝晩見ては、戸惑い混乱する中で、被災地の人たちが生きる喜びを再び持ち、何らかの山の糧が得られないかを、杉や竹などの自然素材に触れながら考えていた。

 三重県は欅や杉の産地であり、多くの専門家が日々、山や森の保全に努めている。私は間伐を伐採する機会をいただいたときに大きな感動を得たのである。植物としての命はここで断ち切るが、別の命を作り上げなければとの思いが湧いてきたのである。

 森の中で杉の木の前にぬかずき、「命を永遠の美に変えさせていただきます」と祈った後、の人々と同じように斧を使って木を倒した。春の木漏れ日の中で杉の命が放つかぐわしさは、今でも忘れることができない。金属の刃物が木にあたるコーン、カーンと高く響く音は山の中でコダマし、命を奮い立たせるのである。木だけではなく、竹も里山に無尽蔵に生えており、一本一本が大地に根を張り、太陽と会話をするために命の主張をしている。木や竹は大地から切り離した後に、人を癒す素材として建築や工芸に使用されるほか、燃料なって料理や暖房にも使われる。

 杉は香り高いお線香にもなる。私はそれらで何ができるかにいて、しばし素材と戯れ、さまざまな思索を試みた。楽器、遊具、食器、家具、花器、装身具など原点に戻り、創作に心を遊ばせた。竹素材では楽器としての笛作り、花器、装身具など、さざまな考えで作品が生まれてきた。雛人形も作ることを試みた。また薪にしか見えない木材を割り、仏様を作ったときには、木が違う表情になり、思わず自分が作ったその前に額突(ぬかず)いてしまうことに感動すら覚えた。

 鉈(なた)、鋸(のこぎり)、小さな刃物を用いて、子供からお年寄りまでが、この円空仏にオマージュし、製 なたのこぎり熱中している姿は神々しく、彫ることに集中しているあいだ、心が落ち着いてくるのである。

 自然の恵みを、芸術的感性で価値あるものに創り変えることは、大き災害の中を生きる人に向けての再生へのメッセージであった。ささやかな自然の恵み+小さな芸術の力がエネルギーを生み出すのである。日本を今一度美しく、輝く国にするには芸術の力が必要であると思っている


■ものを創ることは人間の本質である

 日本文化の本質を知るために歴史的な時代を読み解いていきたい。文字の無い時代にお人々の行動、生活様式は残された遺物から推論をするわけであるが、夥(おびただ)しい数の遺物は𩜙舌(じょうぜつ・口数が多いこと)にメッセージを伝えてくれる。推論の域を出ないが、人はなぜものを創り続けてきたかについての縄文時代の遺物を基に原点を探っていきたい

■ものを創り出す原点は、生きるために必要なものを創ることである

 ①自分自身の維持  健康で生きること 

 ②子孫の繁栄    次世代を生み、育てること

人類はこの二つの行動が基本であり、今の私たちまで営々と続いている

 生業活動(生きることに必要なもの) 衣・食・住・戟・動

 精神活動(心に必要なもの)     飾・祈・祀・呪・護

 食料確保の願い

 子を産み、丈夫に育つ願い

 天変地異、自然災害を抑える願い

用途別分類

 =まとうための毛皮、衣服   寒さをしのぐもの 強く見せる

 =食料の獲得、保存、煮炊き  固体維持

 住=木陰、洞穴、竪穴式住居   風雨、寒さ、動物から守る

 戦=石ころ、矢、弓       食料確保

 動=丸木船           水面での移動

 飾=櫛、替、腕輪、首飾り、耳飾り 他人との差異性

 祈・祀・呪・護=墓、骨壷    死者への畏敬の念

◉素材別分類  土、石、貝、木、樹液、竹、藤、繊維、皮革などの素材で形を作る

◉技術的分類 彫る、割る、編む、組む、塗る、練る、焼くなどの行為

 自然素材をそのままの状態で加工し、活用する

 石を欠いて、割って刃を作る  石鉄などの刃物とする

 石を欠いて、塊の状態を作る  ハンマーとする

 石を欠いて、石臼と石棒(杵)を作る 物をすりつぶす

 木を割り、彩り、器、船などに加工する  彫り物

 木の皮を剥いで器に加工する       曲げ物

 木の蔓などを用いて編んで器を作る    編組

 

 化学的変化をもたらすことを獲得した人類

 燃焼  土と水が火により固体となる   土器

 固化  樹液が水と火により固体となる  漆器

     皮革を水に濡らして火により固化させる  皮革器

 ◉素材の確保

①野山、海や川での収集

②自然素材を自らの知恵で生産、管理する 漆の木、栗の木

長い年月をかけて有用な素材を見つけ、自らが生産管理をしていたことは驚嘆に値する。


■創り出す心

 私たちは毎日、何をするか決めている。何をしなければいけないかの環境や立場によるだけでなく、何をしたいかの心の声、さらには無意識のうちにも行動の順番を選択し、自分の人生を自己の責任で創り上げている。だから、実は誰でも生きているだけで人生を創るという創造を日々体験しているのである。自分の人生は自分が考え、行動したことで創り出されるのである。今日食べた物が三日後の自分の身体、健康を作るのである。何を食べ、何を飲み、いつ休んで、生きていくかが重要なのである。

 その中でも、明確に「自分の心の表現」を意識する人々の中から、芸術に関わる生き方をする人が出てくる。その人に合った表現や素材によって、それは美術・音楽・文学・映像・パフマンスなどさまざまに形を変えるが、根本は同じである。

 自分の作品を創り出すということが一番にくる生活、何かを創り上げているときは、時間,忘れるほど没頭する。でも日々の生活は、たくさんのやらなければいけないことに囲まれている。

 その中ての時間を作って、やりたいことをできることはどんなに幸せなことだろうか。創作できるということは、元気で生かされていることに感謝し、人生の喜びを感じることでもある。

 私たちは今なぜ、ものを創るのだろうか。ものを創り上げるのは、なぜだろうか。そのときに、私たちは何を考えているのだろうか。

 私たちがものを創り出すときには、次に上げる三つの要素を自己のものとして捉えていかなければならない。一つは自分が表現するための媒体術の場合は素材の特性)をよく知り素材の強さをどのようにしたら引き出せるかを考えることである。

■モネ晩年の光の追求と色彩の関係

 

 次に、素材を使いこなす技術を学ぶこと。これには修練が必要である。自分の世界を自由に表出することができるように、時間をかけて技法を自分の手の中に入れるべきである。

 そして何よりも大事なことは何を創り上げるかということ。この「何を」を自分の中でよく確認し、それを形にしていくわけであり、自らの考え=自己の世界自分なりの方法で表現していくことが大事な観点であり、それが個性になっていく

■セザンヌの空間把握と平面構成の関係(視点の移動)

 

 私たちが素晴らしいものや心打つ何かを見たとき、聞いたとき、味わったとき、嗅いだとき、触れたときなどの経験が、感動の心を起こし、魂を震わせ、揺り動くのである。この感動の積み重ねが自然に自らの感性を創り上げ、深め、高めていく。そして何を創るのかは、自分自身の中からあふれてくる感性の表現を形にしようとする強い意思が必要なのである。

■ピカソの造形力と表現の変貌

 自然は美しく完璧である。この自然に囲まれて生活をしていると、世の中にこれ以上何も創り上げなくても良いのではと思ってしまう。ただ、自然は移ろうもので、素晴らしい感動や美の瞬間を記憶にとどめるために人は「創る」のかも知れない。 日本人はものの「あはれ」を愛でる感性を持ち合わせている。これは、壊れゆくもの、枯れいくものの中に、自己の人生を重ね合わせ、時間の流れを共有すること自己の歴史を記憶の中で反芻できることが織りなす世界感なのかもしれない。

ななななゝ