伊能忠敬の人物像

伊能忠敬の人物像

 国家百年の計とは、こういうことを言うのであろう。49歳で隠居した事業家、伊能忠敬がそのことをどの程度意識していたかは別として、結果的には正しく時代を先見した行動であった。だが、彼が才能に恵まれた人物であったことは間違いないとしても、偉人とか天才といった人間ではなく、いい面も悪い面もある普通の人間だったのではないかと思われる。ただ、いささか好奇心が強く、凝り性で根気がよい性格だった。

 彼は、事業を引退した後は目先の利害に関与せず、次世代のための地図作りに熱中した、非常に運がよくて、次つぎに強力な支援者が現れて順調に作業が進んだことが、すばらしい地図を生んだのである。おそらく、当初は日本全国を測ろうなどという気持ちはまったくなかったのだが、持ち前の熱心さと工夫に富んだ性格から、ひとつひとつ階段を上るようにして、とうとう日本中を測ってしまったのだろう。

 忠敬は後世に、日本で.初めての国土実測隊長として英名を残したが、苦労しながら日本中を廻ったというよりも、むしろ生活に余裕の出てきた江戸後期の町村の応接を受けて楽しく測量旅行を続けたのだろう。

▶︎偉人伝

 戦前、忠敬は偉人の一人として称賛された。しかしこれは、伊能図の恩恵をこうむった政府や政治家たちが、彼の実際的な恩恵のお蔭だとあからさまに言うのを避けようとしたからではなかろうか‥戊辰戦争の最後、函館戦争の首謀者で、明治海軍の創設者でもあった榎本武揚の父は、箱田良助という伊能測量隊員であった。17歳の時に郷里の福山から江戸に出て忠敬に入門し、測量に従事して運を拓いた。案外、榎本あたりが忠敬偉人伝の仕掛け人かもしれない

■青年時代時代の実像

▶︎母を失う

 伊能忠敬は延享2(1745)年上総の国(千葉県中部)、九十九里浜のほぼ中央の」小関村(九十九里町片貝)に住む名主・小関五郎左街門家の小関貞恒(さだつね)の第3子として生まれた。幼名は三治郎と言い、兄と姉がいた6歳になった時に母みねを失う。そのため婿だった父親は維禄となり、上の2人の子供を連れて実家へ帰る。三治郎ひとり小関家に残された。

 小関家では男女にかかわらず長子相続制であった。母は長子だったので、姉家督として約15キロばかり北の小堤(おんづみ・山武郡横芝町小堤)の神保(じんぼ)家から婿として貞恒をもらっていた。姉家督の場合、妻が亡くなれば婿は実家に帰るのが決まりだったという。

 この間の経緯などについては忠敬は何も語っていない。生涯の最後まで現役で、過去を振り返る余裕はなかったのであろうか。三治郎は、ひとり置かれたのだから寂しかったにちがいないが、明治の中頃から忠敬は偉人とされたため、伝記作者らは彼が逆境から立ち上がったことを強調するために、ことさら少年時代の不遇を取り上げてきた。

 しかし、父に引き取られる10歳までの間、きちんと基礎教育を受けていなければ後の有能な青年三治郎はありえないだろう。家業の手伝いはしたかもしれないが、読み・書き・算盤(そろばん)はしっかり学ばせてもらっていたと思われる。

▶︎青春の里・小堤(おんづみ)

 三治郎が10歳になると、父のもとに引き取られる。父貞恒の実家・神保家はかつてすぐ近くの丘の上にあった坂田城の城代家老を勤めていた。小田原落城後は帰農して当時は名主であった父は実家に戻って、兄の厄介になりながら、分家を視野に入れて、二人の子供とともに働いていた。

 三治郎は、17歳になって佐原の伊能家に入婿するまでを父のもとで過ごす‥ここでも伝記作者・大谷亮吉は明確な事績は不明としながら神保口碑(こうひ・昔からの言いつたえ)によれば 「三治郎が帰ったときはすでに継母がいて、安住の楽園では まれなく、家にあること稀にして、常総地方親戚故旧の間を流浪する」としている。

▶︎青年像

 しかし、郷土史家の伊藤一男氏によると、父が継母を迎えるのは三治郎の復帰後であり、同じ頃に分家もしたという。その他、この時代の伝承は次のとおりである

 常陸(ひたち)の憎から数学を、土浦の某(それがし)から医学を学ぶ平山某が土木作業の監督を命じたところ人使いがうまかった、家に泊まった幕府役人が計算をしているのを見てすぐ覚えた、など、出来のよい青年三治郎をほめあげている話が多い

 忠敬自身の言葉としては、第5次測量に副隊長として従った渋川景祐(かげすけ・上司の高橋影保・かげやす・の弟)が書いたという『伊能翁行状記』の中に「土浦の医某につきて経伝および医書を受く」(保柳睦美著『伊能忠敬の科学的業績』)という言葉が出てくる。経伝とは四書五経で当時の教養書だから当然である‥医については、保柳睦美の調査によると、余技程度のものであったという。

 いずれにしても、横芝町小堤(おんづみ)から坂田城址の一帯は忠敬が青春を過ごした土地である。今も広い田地や山林があって、海からもそう遠くはない。当時でも暮らしやすい場所だったのではないか。神保本家(神保利も街門家)と忠敬入婿後分家した父の家(神保理左衛門家)は、現在も小堀で続いている。

 10歳から17歳といえば、人生において最も大切な時期である。奉公に出されたとしても、将来のための修業・勉学としての住み込みであったろう。流浪しながら伊能家主人として必要な教養が身につけられたとは、考えられない。伊能三郎右衛門家に入ってからの活躍を見れば、忠敬の入婿後に分家して後に寺子屋を開いたという教育者の父の指導によって、身につけるべきものはしっかり学んでいたと考えるべきである。

■事業家・伊能忠敬

▶︎伊能家に婿入り

 佐原(現・千葉県香取市佐原)の酒造家・伊能三郎右衛門家では当主が亡くなって、21歳の子持ちの未亡人達(ミチ)が婿を求めていた。家運も隆盛というわけではなかったから、家柄とか毛並みではなく才能ある婿を求めていた。その時、伊能・神保両家の親戚の平山家の斡旋で17歳の三治郎に白羽の矢が立って、佐原への婿入りが実現する。

 忠敬は伊能家の親戚・平山右藤右衛門季忠(すえただ)を仮親とし、形式的に林大学頭の門人となり、林家(りんけ・朱子学の家系)から忠敬という名前をもらって、平山忠敬として伊能三郎右衛門家に入婿する。幼い伊能忠敬の出生地周辺忠敬の生家、小関家の墓所(九十九里町の妙覚寺)小関家はもと東金城主の酒井氏に仕えた武士であったというが、現在はこの墓石一つを残すのみである。時から世間を見ていた忠敬は、佐原で抜群の商才を発揮して伊能家を降盛にする。その後の家業への出精を強調するため、人婿時の伊能家は衰退していたとよく言われるが、それもあたらない。入婿2年前の記録が残っており、当時も1200石の酒造家で黒字経営であった。

 

▶︎事業の経営

 佐原時代の記録は断片的ではあるが、小堤(おんづみ)の頃とは違ってよく残っている。家業の酒造業では造酒高1400石というような数字がある。次に、河岸一件という記録では利根川の水運の権利を争っているから運送業をやっていたことも確かである。また、江戸に薪(たきぎ)新開屋を出している。屋敷地は今の旧宅よりはるかに広く、貸家もあった田畑は8町歩余はあり、米穀の売買はかなり大規模におこなつていた。天明の飢饉の際は関西で大量に木を買い付けており、窮民に施したうえで江戸で売って大儲けしたというから、米相場もうまかった。それから、店卸し(たなおろし)帳を見ると年間で一万数千両の大金が動いており金融業でもあった。彼の事業は分かりやすくいえば、今の総合商社である

 ところで、忠敬はどのくらい儲けたのであろう。伊能家の事績を述べた史料「旋門金鏡類録(せんもんきんきょうるいろく)」の中に、佐原の村人が江戸の勘定奉行の質問に答えた言葉として3万両という数字が出てくる。 1両を現在の15万円とすると45億円である。忠敬の資産はこのくらいであった。

▶︎現在の佐原

 佐原はもともと豊かな穀倉地帯に位置するためか、今も工業化の波に洗われておらずに昔からの町並みをとどめている。忠敬の旧宅は香取市(合併により市名変吏) の所有となり、国の重要文化財に指定されている。最盛期の敷地図と比べるとかなり小さくなっているが、主屋は当時からのものと言われる。

 旧宅の前は小野川が流れ、「だし」と呼ばれる船付揚があって、かつては商家が軒を並べていた。対岸には1998年に新しい伊能忠敬記念館が開館し、忠敬の事績を紹介している

■江戸に出て高橋至時(よしとき)に師事

 事業に成功した忠敬は49歳で隠居する。息子の景敬は28歳だったから当時として早すぎることはない。この後は、文学とか花鳥風月を友として優雅に暮らしてもよかった。ところが、江戸に出て天文・暦学を志し、19歳年下の幕府天文方・高橋至時に入門する。

▶︎江戸に出た理由

 忠敬出府(しゅっぷ・地方から都へ出ること)の動機については、なぜ天文・暦学なのか、どこから高橋至時のことを知ったのかなどの疑問がある。これまで「吾等幼年より高名出世を好み候えども親の命にて佐原に養子に去々」というはるかに後年の手紙の一節をとらえて、名を残すために学問を始めたと言われてきた。天文・暦学を選んだ理由も、結果がはっきりしているために在野の知的人生を求める多くの人々が選択したからだと一言われるが、定かではない。

 確かに言えることは、伊能の一門には偉い先輩がいたことである。忠敬の4代前の伊能景利は、隠居後に佐原村の古記録を集め、150年前からの史料を「部冊帳」という記録集にまとめた。また、同族の伊能茂左街門景豊はまたの名を椙取魚彦(かとりなひこ)といい、隠居後に出府して賀茂真淵門下の国学者として名を成している

 こういう先輩に囲まれた入婿の主人としては、負けないよう何かをしなければという気持ちがあってもおかしくはない。忠敬はもともと理系に関心が深かった。

 文系の2人にたいし理系なら、数学から暦学・天文学に進むのは時の流れだった。ここで忠敬が高橋至時(よしとき)と巡り合ったのは第一の幸運であり、成功の第一歩だつた。至時は大坂の玉造組の同心であったが、天文・暦学を当代随一の暦学者・麻田剛立 (あさだごうりゅう)に学び、俊才と謳われていた。寛政の改暦のために、師匠の剛立の代わりに間重富(はざましげとみ)とともに幕府から召し出され、旗本の天文方(てんもんがた)に抜擢(ばってき)された人物である。

 改暦の作業に忙しい彼は弟子をとりたくなかったが、忠敬の懇請(こんせい・熱心におりいって頼み込むこと)を拒みがたく弟子にしたと偉人伝は言う。しかし必ずしもそうとは言えないようである。亡くなつた忠敬の3人目の妻お信の父桑原隆朝(りゅうちょう)は仙台藩の江戸詰めの上級藩医で、幕閣(ばっかく・幕府の最高首脳部)の一人と強いつながりがあったのである。状況から見ると、天文方に新たに召し出された至時と忠敬を結びつけた気配は濃厚である。その後に桑原隆朝が忠敬へ尋常でない肩入れをしたのも、そう考えると納得がゆく

源空寺の忠敬墓碑 忠敬の遺言で師の恵橋至時の墓の傍らに葬られた。

■測量への契機

 天文・暦学を学んでいた伊能忠敬は、なぜ日本全土の測量をすることになったのであろう。高橋至時のもとで学んでいた暦学から、どのような経過で測量へと変わっていったのであろうか。これまでの偉人伝では、佐原時代に村役人として、忠敬はすでに測量の技術を持っていたという。しかし、江戸東京博物館の「伊能忠敬展」 (1998年)に出展された「黒江町・浅草測量図」という簡単な測量図を見ると、必ずしもそうではないと考えられる。

▶︎地球の大きさを測る

 至時(よしとき)に師事していた忠敬は、暦学上の解析のため地球の大きさが問題になっていることを知り、深川で地球の大きさを測ることを思いついた。当時は緯度1度の距離について定説はなかった。「浅草の暦局と深川黒江町の自宅との緯度の差は1分半自宅を通る子午線上の緯度差に相当する距離を測れば、緯度1分の長さを決められるはずだ。それを、60倍×360倍=2万1600倍すれば、地球の大きさが分かる」と考える。

 持ち前の実行力で、すぐ具体的な作業にかかった。江戸の市中に縄を張ることなどはできなかったから、距離はほかの人に気づかれない歩測であったろう。街路の曲がり角は懐中用磁石で人目につかぬよう測られた。黒江町・浅草測量図は、そのときに作られた地図である。これを現在の地図に置き直すと次頁の図のとおりである。いっぽう伊能家には、この図と同じような描図法で佐原村の利根川近くを測量した寛政6年制作の図(下図参照)も残されている。

 黒江町・浅草測量図の制作時期は分かっていないが、図の描き方が類似しているので両図の制作時期はそれほど離れてはいないであろう。

▶︎黒江町・浅草測量

 忠敬の測量図には子午線上の距離は書いてないが、暦局と自宅間の自宅距離は方位亥6分8厘、距離22町45間とある。忠敬の測地尺(30.3㎝)で換算すると、距離は2482mとなる。亥の6分8厘は北に対して350・4度にあたるから、子午線上の緯度1分の距離は、20482×cos9.6°/1.5=1631mとなる。この試算について忠敬は、彼の著書 『仏国暦象編斥妄』の中で述べている。暦学上の必要から測定をして師匠に提出したところ、至時から「そんな短い距離でやってみても誤差が大きくて駄目だ。しかしもっと長い距離で行えば使えるかもしれない。考えてみよう」と言われ、蝦夷地測量の計画が練られ始めたという。

 高橋らは当時、地球が球体であることは分かっていたが、大きさは分からなかったという。理科年表では35度付近の緯度1分の距離は1849・2mである。忠敬の測定値1631mは約11・8%の誤差であるから、データとしては問題外である。後年、第2回測量後に忠敬が算定した1度の距離28・2里は、1分に直すと1845・63mであり、誤差は0・2%にとどまっている。その著しい精度の向上に驚かされる。(参考 暦局・隠宅間の実距離を現在の地図データでみると、3020.6メートルで、忠敬の測量図とは約21%の差がある。〔株・パスコ・鈴木平三氏提供〕)

ラランデ暦書 フランスの天文学者ラランデ(1732−1807年)の著書をオランダ人ストラッペが翻訳した。当時の世界最高水準の天文書。(国立天文台蔵・立木寛彦撮影)

寛政暦書 寛政暦法の暦法や器具の解説をする。高橋至時の次男・渋川景佑らが作成した。弘化元(1844)年、全35巻。(国立天文台蔵・立木寛彦撮影)

■伊能測量と歩測

 伊能忠敬のことを書いた文章では、忠敬が日本中を歩測で測ったと書いてあることが多いが、これは誤解である。忠敬が歩測で測ったのは第1次測量だけである。第2次測量からは徹底して間縄(けんなわ・植え付けなどのときに、間隔を整えるために用いる縄)を張って測っている

 忠敬の歩幅は佐久間達夫氏の調査によると次の通りである。伊能忠敬記念館の国宝資料のなかに「雑録」という史料があるが、そのなかに暦局から千住宿までの距離を示す次のような数字がある。

木車 1里12町51間(享和2年測量)

歩間 1里15町56間(寛政12年測量) 1町に158歩

銅車 −里15町58間(享和元年測量)

 ここに出てくる1町に158歩という数字は忠敬の歩数だろうというのである。忠敬の量地尺では1尺は30・303㎝だから1歩は69㎝となる。

 一方、至時と間重富の往復書簡集の星学手簡では200歩を大図の1分というから、歩幅は66㎝くらいとなる。

 忠敬の身長は、着物の丈などから160㎝くらいと推測されるので、歩幅が広すぎる感じがしないでもないが、連続して歩いていると加速度がついて歩幅は広がるようである。100mを普通の歩幅で歩いて計算してみるとよい。普通の成人男子の場合、75㎝くらいあることが多い。