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遣唐史の道
■海を渡った異文化交流の使者たち
遣唐史の道は定説では3つある。難波津を出て瀬戸内海を通り、那の津(博多津、筑紫の大津浦などとも称された)へ向かうところまでは同じだが、その先は時代によってルートが異なった。まず初期の630年から約40年間用いられていた北路は、壱岐、対馬を経て朝鮮半島へ向かい、半島西岸沿いに北上し黄海を渡って山東半島に上陸。洛陽から長安へと陸路を進む。遣隋使がたどったルートと同じとみられる。663年白村江の戦いで唐・新羅連合に日本・百済連合が敗れ、その後、新羅が唐を破り朝鮮半島を統一してからは朝鮮半島を避け、南島路をとるようになる。
南島路は那の津から平戸島、九州南端、種子島、屋久島、奄美島、沖縄諸島などを経て東シナ海を横断し杭州湾岸などに着くというもの。7世紀後半から8世紀半ばまで用いられたとされるが、このルートに関しての史料が少ないため、中期の遣唐使船すべてが南島路をとったのではなく、強風に流されて漂着または寄港したのではないかという説もある。
8世紀後半から遣唐使の廃止が決まった894年まで(実際の派遣は838年まで)は南路をとった。南路は那の津から五島列島を経て東シナ海を渡り、長江河口や杭州湾を目指すルート。初期には2隻だった遣唐使船は、この頃には4隻に約500人が分乗する大がかりなものとなっていた。行程は風待ちなどもあるため日数も要し、第15回遺唐便船に随行した円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、邪の津から出発して東シナ海を渡りきるまでに19日かかっている。
遣唐使船は遭難することも多かった。約600人が4隻に分乗した733年の遣唐使船は帰路、船によって明暗が大きく分かれた。4隻は734年11月頃、蘇州を発ったが、強い季節風に遭いすぐばらばらになってしまった。大使の乗る第1船は12月に種子島に漂着し、翌年4月帰京した。第2船は越州に漂着し洛陽に戻り746年に帰朝。第3船は足寄国に漂着したが賊に殺されたり病死するなどし平群広成など4人だけが生き残った。第4船は難破したとみられている。
遣唐使船遣唐使船はマストが2本ある帆船で、サイズは長さ約30メートル、幅約9メートル、高さ約20メートル、積載量約150トンと推定されている。
■遣唐使船
▶︎観光の場で活躍する達磨便船
遣唐使船の展示や遣唐使船をモチーフにしたイベントを行っているところは多い。広島県呉市にある長門の造船歴史館では復元された遣唐使船の内部を見学することができる。奈良県奈良市を中心に2010年に催される平城遷都1300年祭では、原寸大の遣唐便船を展示。船内では航海の感覚を体験できる三次元映像を上映する計画がある。佐賀県佐賀市の嘉瀬川では、鑑真が佐賀市に上陸したという伝承にちなみ、5月から11月まで遣唐使船を模した観光船を運航。毎年8月最終日曜日には退居便船レースも行われる。