元寇の道

■元寇の道

▶文永・弘安の役で元軍がたどった海の道

 鎌倉時代に日本を揺るがせた元寇は、1268(文永5)年太宰府にもたらされた一通の国書から始まった。元が日本との国交を求めるその国書を日本側は侵略の前触れと捉え返牒も送らず、防衛体制を整えた。1274年10月3日、元と高麗の兵からなる約3万3000名の軍が朝鮮半島南端の合浦から出航。軍船は900隻以上に及んだという。10月5日、約1000騎の元軍が対馬の小茂田浜に上陸。守護代の宗助国が80余騎を率いて防戦したが全滅する。戦闘の場は、現在の対馬市厳原町小茂田にある金田小学校周辺とされている。10月14日、壱岐が攻略される。守護代・平景隆をはじめ百余騎が全滅、多くの島民も犠牲になった。

 10月20日には元軍は博多湾の今津から百道原地、行浜、長浜などに上陸し

よ戦新線8ヂられた。元軍優勢で、き上げ退を本国に「吹き返した」という伝説合戦から約半年後の1275年4月15日、元か患ら5人が長門室津(現在の山口県下閑市豊浦町)何度も使節を送っているにもかかわらず返牒がないため、大事府ではなく室津に向かったとみられているが、使者たちは鎌倉に召し下されて斬首。

 1281年の弘安の役の発端となる。・藻・高麗合同の東路軍4万が合浦を出発し5月21日後、6月6日志賀島に上陸し、合戦となった。軍の一

侵攻。志賀島では日本軍の猛攻により東路軍が鷹島まで撤退

1294年旧南宋軍による釣10方の江南軍は6月18日慶元(寧波)を出発

■北条時宗(1251〜1284)

 鎌倉幕府の第8代執権。18歳で執権となり元の襲来に備え国防を強化。文永の役、弘安の役で元軍の撃退に成功した。禅宗に帰依し1282年鎌倉に円覚寺を創建している。

1333年月27日、博多湾攻撃のため東路軍とともに鷹島で合流するがが吹き、元軍はほほ壊滅した。

■博多湾

▶︎博多湾の史跡

 文永の役で主戦場となった博多湾には、元尭の史跡など歴史的な見どころが多い。元軍が上陸した今津は平安時代末期に開かれた港で、僧栄西が宋に渡り禅や茶をもたらすなど、日宋貿易(交流)で栄えた。文永の役の激戦地、祖原山には狙原元蒐古戦場跡の碑が立っている。また文永の役後、幕府は元軍の再襲に備えて異国警固番役を強化。1276年には元の上陸を阻むために、博多湾沿岸の香椎から今津まで約20キロにわたる石築地(元鬼防塁)が建設された。

 福岡市早良区の西新・百道地区などで発掘された元寇防塁跡(写真、MAPllOC2)を見ることができる。︎みみみ