南北朝動乱の道

■南北朝動乱の道

■東海道、山陽道を駆け扱けた尊氏興隆の道

 1333年、後醍醐天皇は配流先の隠岐島を脱出して京に入り、足利尊氏、新田義貞らによる鎌倉幕府倒幕の報を受けると、念願だった建武の新政を断行。これは宮廷の権威復活に重きを置き、行政・軍事の諸機能を天皇に集権化させようとした大改革だった。だが、武家を軽んじたために2年も経ずに諸家の不満が高まり、尊氏自身も政治の中枢から外されたことに強い憤りを感じるようになった。

 1335年、北条時行を中心とした北条氏残党が鎌倉幕府の再興を企て、中先代の乱を起こすと、尊氏は独断で東海道を東下。鎌倉を奪回していた北条氏残党を駆逐し、そのまま鎌倉にとどまった。後醍醐天皇は尊氏の行動に脅威を感じ、懐柔策に出る。尊氏を征夷大将軍に任命して帰京を促したのである。しかし、尊氏はこれを無視し続け、ついに朝廷と枚を分かつ決意をした。こうなると、後醍醐天皇の心中は穏やかでない。尊氏が挙兵すれば有力者の多くが、朝廷に牙をむきかねないためである。そこで、対立する義貞に尊氏討伐を命じて鎌倉に向け進軍させた。

 朝敵とされた尊氏は、ここで京都攻略を決断。義貞の尊氏討伐軍を箱根の竹の下の戦いで打ち破った後、そのまま京に上り朝廷を下す勢いだったが、1336年、出先の奥州から馳せ参じて尊氏討伐軍に加わっていた北畠顕家ちの軍勢に敗れて、海路で九州へ落ちのびた。ここで軍配は朝廷側にあがったかに思われたが、同年3月、尊氏は博多の多々鳥浜の戦いで朝廷軍を破り、そのまま山陽道を東上。4月には待ち受ける義貞と楠木正成軍を摂津国の湊川の戦いで潰走させて、京を手中に11月に室町幕府が開か、後醍醐天光明天言即位し尊氏と義貞突出した才能をもった永遠のライバルの出自 犬猿の仲だったといわれる足利尊氏と新田義貞。しかし、そのルーツをたどれば、義貞の郷里である上野国の新田庄と足利家発祥の地とされる下野国・足利庄は隣接する。実は尊氏と義貞の先祖は兄弟。八幡太郎として名高い名将・源義家の二男が足利家を興し、長男が新田家を興したのである。十数代あとの子孫が、ともに同時代を駆け抜け、歴史を動かしたスーパースターになろうとは、さしもの義家も想像できなかったに違いない。

年表1324年1331年1333年1335宣1336年

1324年

後醍醐天皇の倒幕計画が発覚、側近が処罰される正中の変、ぅ後醍醐天皇の倒幕計画か再び発覚、隠岐島に配流(元弘の変)これを受けて楠木正成らが倒墓の挙兵

2月、後醍醐天皇が隠岐島から脱出

4月、足利尊氏が鋳倉幕府に反旗を詫し、六波羅探題を攻略

5月、新田義貞らが富津倉幕府を倒す

7月、中先代の乱が勃発‥ 尊氏が征討に向かう

11月、造反の疑いで、後醍醐天皇が義貞に尊氏討伐を命じる

12月、竹の下の戦いで尊氏が義貞の討伐軍を破る

1月、尊氏は京に入るが、北畠顕家や義貞の軍勢に敗れる

3月、九州に逃げた尊氏が多々良さの戦いに勝利し、再び京を目手す穣、

■足利尊氏

 清和源戌鎌倉幕府の重職に就いたが、親政復活を画策していた後醍醐天皇にくみして挙兵し、新田義貞とともに鎌倉幕府を倒した。しかし、建武の新政後に後醍醐天皇を吉野に追放して、京都に室町幕府を開いた。

 群馬県太田市(旧新田町と合併)の新田庁舎(旧新田町役場)前に建つ新田義貞像(写真、MAP92C5)。周辺は「太平記の里」というだけに、太田駅前、東毛歴史資料館前など、英雄・新田義貞像が何体も建立されている。