「絹本著色十六羅漢像」解説
■「絹本著色十六羅漢像」解説
(1)「羅漢」とは?
羅漢(阿羅漢)は、梵語の「アルハン(arhan)」の音写(おんしゃ・元の発音に漢字をあてたもの)です。
「アルハン」は,日本語では「尊敬に値する者」「供養されるに相応しい者」と訳されます。
つまり,「仏の弟子たらの中で最高の尊敬を受ける者」という意味であり・もともとは修行者として最高の境地に達した人を表す言葉でした。
その後,仏教が発声していく中で,単なる僧侶ではなく、人々を救う神通力持つ存在として受け取られるようになっていきました。
これらの羅漢たちは,仏になるほどの力を持っていながら仏とならずにこの世界に住み続け,人々を救う者であるとされています。
(2)「十六羅漢」とは?
その中でも,特に神通力を持つ存在として選ばれた16人が「十六羅漢」です。
玄奘(三蔵法師)が中国語に翻訳したお経「法住記(ほうじゅうき)』によると,菜越が亡<なる時に,16人の弟子に正しい教えを守れと命じた,とあります。
仏教では「仏の教えも永遠ではなく,いつかはなくなる時が来る」と考えられています。十六羅漢たちはその時が来るまでは自らの寿命を延ばし永く人々を導かほうき,人々に大きな果報を与えるとされています(16人の名前と住処については別表をご覧ください)。
彼らが住んでいるところは,架空の地名などもありますが・いずれも我々の住む世界と地続きの場所と考えられます。遠い世界ではな<,我々のすぐそばで見くらかんぞう かいせつこ羅漢像」解説守ってくれる存在として,羅漢に対する信仰は広まっていきました。
この信仰は,『法住記』の翻訳により中国に広がり,十六羅漢と言えばこのメンバーが一般的となりました。
中国では,古<から砧笑(修行により不老不死になった人)に対する信仰力号あり,羅漢が永<生き続けるという事とそれが合致したのも羅漢信仰が広がった理由だと考えられます。
日本では,平安時代から鎌倉時代にかけて中国と交流があり,多くの僧侶が中国で仏教を学び.羅漢信仰や羅漢像も併せて持ち帰ってきました。
日本で羅漢信仰が広がり,羅漢を供養する「鮭無毒」が盛んに行われるようになると,その本尊として日本でも多<の羅漢国が製作されました。
初期の十六羅漢像としては,東京国立博物館にある国宝の十六羅漢像や,策造元年(987)に僧・菅栄力坤国から持ち適ったと伝わる,京都・嵩篇等のもの(国指定重要文化財)が挙げられます。
(3)金龍寺の「十六羅漢像」とは?
今回複製を展示する金龍寺の十六羅壷像は,寺伝によると嘗筒賀の開祖・蓮完(1200〜1253)が中国芙墓誌にて修行を積んだのら,帰国する際に南宋の遠賀皇帝(在位1224〜1264)から賜ったものであるといいます。
道元は羅漢像を袈軍等で供養した後,鎌倉違憲等に贈りました。その後,.鎌貢幕府の執権・北条氏の手にネりましたが,北条氏を滅ぼした新通蓋貰の手により金龍寺に納められたそうです。
羅漢像は,その絵柄から大きく2種類に分けられます。
1つは羅漢の顔に弓凱1デフォルメを施す偶胃寝⊥もう1つはリアルな描写が行われる「筆善書論敵で,金龍寺の十六羅漢像は「李龍眠様」の様式を持っています。
例外もありますが,奇数の尊者は画面向かって左側を向き,偶数の尊者は右側を向くように描かれています。
これは,羅漢像を記るときに釈迦園などを中心に順番に飾っていくと,それぞれが対面になるように構成されているわけです。 表現方法から見て行くと,金泥を使い衣装等に精密な模様を施す点が特徴となつています。
また,背景の山水画には中国宋の時代の山水画らしい特色がありますが,樹木の表現は新しいものがあるところから,宋の時代の羅漢像に影響を受けて鎌創幸代後期頃にわが国で作られたものだろうと考えられています。
いずれにせよ,16幅揃った羅漢像で,しかも保存状態も良い作品であることから,大正6年に国の重要文化財に指定されています。
現在は茨城県立歴史館(水戸市)に寄託されていて,なかなか見ることのできない作品ですので,この機会にぜひご覧<ださい。
(4)末法思想と十六羅漢
十六羅漢の物語を語るときに,欠かせない要素があります。それは「崇覧出」という考え方です。
元々,仏教の基本的な考え方に「篭窮謂軌というものがあります。「この世にある全てのものは移り変わって行き,一定の状態であることはない」という考え方で,「生まれたものは全て滅びる定めである」と言い換える事も出来ます。
この考え方によれば,釈迦の教えもその運命を腎れない事になります。また,・釈迦が亡<なった直後には,早くも彼の教えをないがしろにする者が現れたため,古参の弟子たらが危機感を覚えたと言われます。
この弟子たらの危機感も手伝って,「釈迦の教えも永遠ではない,いつかは滅び去ってしまう」という考え方が発展していきました。
いつ滅びるかについては色々な説がありますが,最も一般的な説は,「正法 (しょうほう)」「像法」「末法」の3段階の時代を経て滅びる,というものです。
正法は「完全に正しい教えが伝わっている時代」,像法は「教えや修行の形式は残っているものの,悟りを開く者はいない時代」,そして末法は「教えの言葉は残っているが,正しい修行も悟りもな<なる時代」とされ それが終わると,「仏教のすべてが失われた(これを臆頴』と呼びます)時代」になるという事です。
十六羅漢について説いた『法住記』にも,具体的な時期は定かではありませんが,「いつ力、仏教が滅びるときが来る」と書かれています。
『法住記』によると,十六羅漢は釈迦が亡<なった後,正しい教えを守り人々を救い続けますが,「法滅」に到ると世界から姿を消してしまう,とあります。その後,菰憩室薩力簡しい仏として現れるまでは,人々を救う存在はいなくなってしまいます。一方日本で書かれた文献には,十六羅漢は弥勧善薩の出現までこの世にあり続ける,と説く専のもあります。いずれにせよ,十六羅漢は釈迦の没後から,次の仏である弥勤菩薩の出現までの仏のいない時代を救う存在として考えられています。
■第一尊者
1.名称.賓度羅抜羅堕闇(ひんどらばらだじゃ)尊者 (ピンドーラ・パーラドゥァージャ Pind01aBh畠radvaja)
2.特徴 ひどく荒れた波の見える海辺の洞窟に座っています。両手には小さな 仏像の入った宝塔を捧げ持っています。
3.解説
この尊者は『法住記』によると1,000人の醤嵩(手下・部下)とともに茜皆癌皆絹に居住するとされている釈迦の直弟子です。獅子吼 賀竺と言われライオンカ嶋えるが如<,夢嶺(仏教以外の教徒。悪人という意味ではありません)にも恐れずに説法したとされます。
ある時,禁じられていた神通力を人前で発揮してしまったため,彼は釈迦から叱責され,篇韓翻肩(普通の人間が住む場所)から離れ,西牛皆絹(西劉官尼州とも)で人々を導いたとも,現世から仏教の正しい教えがなくなるまで淫楽に入る(煩悩をな<す=仏になる)ことを許されなかったとも言います。この伝説が,釈迦が亡くなった後も永くこの世で正しい教えを守り続ける十六羅漢の物語になったのかもしれません。
『法住記』には出てきませんが,曹洞宗の開祖である道元禅師が書いたとされる『羅漢供養式文』には,釈迦が亡<なるとき,この尊者を筆頭とする16名に「弥勒菩薩が人間の世界に現れるまでの問,正しい教えを守り続けよ」と命じたとされています。弥勤菩薩は現在天界で修行中であり,その修行が完成して人間界に現れるまでの56億7000万年間,‘彼ら十六羅漢は人々を救い続ける役日を持っていると言われています。
日本では,「おびんずる様」と呼ばれ お毒に安置されている彼の像を撫でると,撫でた場所の病気が治ると信じられています。
■第二尊者
1.名称
迦諾迦伐瑳(かなかばつさ)尊者(カナカワァッツア Kanaka>atSa)
2.特徴
岩窟に座し,右手に駐草を持っています。傍らに冠をかミキった人物が合掌して立っています。
3.解説
『法住記』によると,500人の書属とともに逸遠赤義盛(今のカシミール地方)に居住するとされています。
この尊者については,特に詳しい伝説が伝わっていません。ある経典に「掲諾迦哺磋(カナカバサと読めます)」という釈迦の弟子が出てくるので,同一人物ではないかと考えられています。
この経典の中で,釈迦の言葉として「善悪の法を全て悟ることが出来 る弟子」であると記されています。
さて,十六羅漢像には主役である羅漢だりでなく,多くの人や生き物が描かれています。
今回展示した4幅では,本国には中国の王様を街額とさせるような人物が,第三尊者の傍らには剣を持った鬼が,第四尊者の隣には合掌した
「天(日本でいう神様のような存在)」がそれぞれ描かれており,いずれも中央の尊者との対比で小さく(というより,中央の尊者を大きく描いたのでしょうが)なっています。また,他の図でも,ある者は龍を,ある者は虎を従えるなど,極めてバリエーションが豊かです。
尊者を大きく描くのは,羅漢の徳の高さを表しています。そして,猛獣や鬼などを従えた姿で描<のは,羅漢が救おうとしているのは人だけでな<,神や魔,篭嘗などあらゆる命であるという事を伝えたいのかもしれません。
■第三尊者
1.名称
迦諾迦放置堕闇(かなかばつりだじや)尊者
(カナカ・パーラドゥァージャ Kanaka8h畠radv畠ja)
2.特徴
椅子に座り,両手に薮媒を持っています。傍らに剣を持った三つ目の鬼が立っています。
3.解説
この尊者は,『法住記』によると600人の書属とともに簑儲篭禰に居住しています。
詳しい伝説は伝わっていませんが,古い時代の経典には「ハーラドヴアージャ」という姓を名乗る人物が複数出てきます。
その中に,「農業を営むパーラドゥァージャ」という物語があります。パーラドゥァージャは所有する土地で農作業を行っていました。朝食時に釈迦が托踪に訪れたので,パーラドヴァージャは釈迦に「私は自分で田を耕してから,朝食をとります。あなたも自分で田を耕してから,朝食をとったら良いでしょう」と言いました。すると釈迦は「私も田を持ち自分で耕しています。それでこれから朝食をとるのです」と害えます。
パーラドヴァージャは不審に思い,を持っていないのに,耕すとは?」と尋ねます。釈迦はそれに害え「私にとって修行こそが農業であり,解脱こそが収穫なのです」と言いました。
このようなやり取りの後,パーラドゥァージャは釈迦に弟子入りして修行を重ね,ついには阿羅漢の位に達したそうです。
第三尊者が「農業を営むパーラドゥァージャ」と同一人物かは不明ですが,このような弟子たらの一人(あるいは何人か?)がモデルになったのかもしれません。
■第四尊者
1.名 称
蘇頻陀(すびんだ)尊者(スピンダ Subinda)
2 特 徴
右手に孟義絶左手に孟轟抹を持っています。傍らに合掌した人(背後に薄く火が見えることから,普通の人間ではなく,「天」と呼ばれる日本の神様のようなものと思われます)、が立っています。
3.解 説
『法住記』によると,700人の巻尾とともに貰ピ撞鐘矧こ居住しています。この尊者も詳しい伝説が伝わっていませんが,ある経典に「輸毘多(シユビタと読めます)」という釈迦の弟子が出て<るので,同一人物ではないかと考えられています。この経典の中で,釈迦の言葉として惜驚喜(前世のことを見通す能力)を持ち,過去に起きた全てのことを角持明かせる者」とされています。
第四尊者が手にしている五鈷杵は,もともと古代インドの武器「ヴァジュラ」が仏教に取り入れられたもので,煩悩を打ち破る働きがあるとされています。また,五鈷矧まそれを鳴らすことによって,普段は挺懇中にある仏や神々を目覚めさせたり,人々の注意を喚起して説法を聞かせたりする力があるそうです。つまり,第四尊者はこれから重要な説法を行おうとしている姿で描かれています。
彼がいる北倶痙州は,古代インドで考えられていた4つの大陸の1つです。他に西璧陀尼州(第一尊者が唐往),棄勝島州(第三尊者が居住)南嬉部州(普通の人類が住んでいる場所。第五尊者が居住)がありますが,この北倶痙州はその中でも最も良い所で,そこに住む者の寿命は1,000歳であり,全ての楽しみを味わえると言われています。そのため,住人は仏の教えを聞く気にならないという状況になっており,修行上の儲軌の一つとされています。
第四尊者の絵は,そういう状況でも人々に教えを説こうと努力して
いる姿を描いていると考えられます。
■参考資料
●歴史一般
『国史大辞典 第七巻』(昭和61年11月)国史大辞典編集委員会・編/吉川弘文館
●市史関係
『龍ヶ崎市史 近世調査報告書l』(平成6年3月)龍ヶ崎市教育委員会
●文化財関係
『竜ヶ崎市の文化財』竜ヶ崎市教育委員会
『国宝・重要文化財大全1絵画(上巻)』(平成9年6月)文化庁・監修/毎日新聞社
『国宝・・重要文化財大全2 絵画(下巻)』(平成11年3月)文化庁・監修/毎日新聞社
『仏像レファレンス事典』(平成21年7月)日外アソシエーツ・編集/発行
●仏教一般
・『望月仏教大辞典 第三割.(昭和11年)編纂代表者・塚本善隆/世界聖典
刊行協会
『須弥山と極楽.仏教の宇宙観』(昭和48年9月)定万歳・著/講談社
『総合儒教大辞典 上巻』(昭和62年11月)総合儒教大辞典編集委員会・編/法蔵館
『日本仏教人名辞典』(平成3年1月)日本仏教人名辞典編纂委員会・編/法蔵館
『広説 悌教語大辞典 縮刷版』(平成22年7月)中村元・著/乗京書籍
『原文対照現代語訳 道元禅師全集17 法語・歌頒等』(平成24年12月)高橋文二,角田泰隆,石井清純・訳注/春秋社
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』(平成27年4月)荒牧典俊,本庄良文,榎本文雄・訳/講談社
●経典類
「悌岩即可羅漢異徳経」法顕・訳 『大正新惰大蔵経 第二巻』より
「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記」玄突・訳『大正新偶大蔵経 第四十九巻』より
●図録類
『開館十周年記念特別展 茨城の名宝』(昭和60年7月)茨城県立歴史館著
『平成27年度特別展 茨城の宝l』(平成28年2月)茨城県立歴史館・編/発行