■廃仏毀釈運動
■第一章 廃仏毀釈運動
日本での仏教の歴史はいまをさかのぼること約1500年、六世紀の半ばに朝鮮半島よりもたらされたものである。そして徳川時代(1603~1868/265年間)までに、表面上は、事実上もっとも力があり、国家宗教の役割を果たしていたかのように見えていた。鎌倉時代(1192~1333/141年間)には、なんと13037戸もの寺院が建ち、徳川時代には各家族は近隣の寺に属する檀家制度が生まれ、その結果、469,937戸までにふくれ上がった。
だが、仏教が国家宗教になった時点で、隠された負の遺産を生み出す結果となる。半ば強制的に寺に所属することで、多くの僧侶たちは政府の役人と化す。あるいは、一つの宗派に属することが、一人一人の信念ある信仰心によって決定されるのならまだしも、政治的義務から宗派を決める結果となっていった。
仏教に大きな権利や高い地位を与えることになった背景には、これまた、西洋からの植民地化の恐れを抱くゆえに、外国での信仰の対象をローマ法王といえども一切認めない徳川幕府が、なんとかキリスト教を追放しようと必死になる様子がここに見られるこ同時に日本国の一切の宗教の仕組みが表社会のそれと同様、明確に支配されていたことである。
幕府が既成仏教教団の勢いを押さえこもうとして、一向一揆の中心となった浄土真宗を二つの派に分け、西本願寺、東本願寺を設立させた。また、日本中の書院を、より格式の高い寺の配下におき、ピラミッド型の寺社会を形成、そしてその頂点に立ったのが大本山といわれるものだった。各宗派での仏教に対する見解の相違は認められはするものの、それぞれの大本山たるものは、自分たちの支配する末寺の僧侶の行動や言動に関して、一切の責任を幕府から託されていた。二度とふたたび一向一揆のような運動が起きないためにである。
既成仏教教団が幕府の支持を得るべく支払ったより高い代償に、米国の宗教学者ロバート・ベラーの言う、「徳川時代における非創造性と傲慢さ」があげられる。仏教学者柿崎正治は、この現象を強く批判し、「仏教僧の多くが、長年にわたっての平和な時代を通して、怠慢になるか、陰湿な陰謀を企てるかのようなことになっていった」と言う。
だが、収入源のある寺では学問に専念する憎もいた。白隠禅師が臨済宗の改革を進めたように、それぞれの宗派で革進をめぎす僧侶たちも実際にはいた。〔だが、多くの僧侶はまるで幕府の役人のモ・7ように権力をふるい、自分たちの檀家を押さ、え、財政を搾取したりもした=アメリカの日系学者ジョゼフ北川(シカゴ大学)は、次のように言う。「このように道徳的に見ようが精神的に見ようが、皮算用状態にあった既成仏教教団は、当然ながら教団の内外からの批判の的となった」
だからこそ、既成仏教教団は総決算のときがきていたのだった。
▶仏教に向けられた明治政府の対策
1867年12月9日、若き日の明治天皇は王政復古を発表する。だが、事実上の権力の場は限られていた。それにもかかわらずその三カ月後、1868年三月十四日、天皇は「五ケ条の御誓文」を発布。ここで新政府の非封建的な立場が明確となった。
一、広ク会議ヲ輿シ 万機公論二決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ 盛二級給ヲ行フベン
一、官武一途庶民二至ルマデ各ソノ志ヲ遂ゲ 人心ヲシテ倦マザランノンコトヲ要ス
一、旧来ノ随習ヲ破り 天地ノ公道二基クベシ
一、知識ヲ世界二求メ 大イニ皇基ヲ振起スベシ
この五ケ条からなる誓文とは、一見、無害のようではあるが、第四条の中に、その後の仏教が直面していく嵐を暗にほのめかすような点があったことに気づく。つまり、「旧来の随習を破り‥‥」というこの昞習とは、一体何をさすのか? その答えは長くかかろうはずもなく、数日後に仏教と神道を切り離す手段として「神仏判然令」が新政府によって発布されている。
この初めての法令たるものの目的は、日本各地の神社から仏教僧を引き離すことにあった。その結果、神主のみが神道の管理をすることを許されたのだ。これに続く法例が二週間をまたずして発布される。これによって神道の神々において仏教用語の使用は禁止。神道において神々をあらわす手段に仏像の配置も禁止。境内にも仏像の建立は禁止される。
判然令を作成した関係者の本来の意図はともかく、ある地方においては仏教の一切を破壊することに何の問題はなしとまでに解釈する羽目になってしまったのである。これについてアメリカの歴史学者ジェームズ・キャタロイは、彼の名著『明治の異端者と順応者」の中で「神仏判然令たるもの、その内容は必然的に仏教に対する直撃を含んだものである」と指摘する。
まず、「神祇省」での役人の大半が積極的に国学を支持したこと。神道の中心をなす国学の思想体系が、日本国と天皇制の由来が聖なるものであるとしつつ、神州かつ皇国であると主張し、天皇たるもの、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫ゆえ現人神(あらひとがみ)であることとした。
※ 亀井茲監(←前出)・平田鉄胤(かみたね)・福羽美静(←前出)などの平田派・大国派の国学者や神道家たちが登用され、神道国教主義のシナリオが大きく浮上した。あまつさえ神祇官は太政官の上に立つことにさえなった。
特に中国から受けた影響や付加が、日本古来の聖なる伝統を隠させてしまったのである。同学派の人々の新政府でのもっとも重要な役割は特に仏教をはじめとする、諸外国からの要請を排除することにあった〉この「排除」たるものは、結果的に大変な効果をもたらしている。
次の数字が表わすように、全国の四万戸の寺院が封鎖、数えきれぬほど仏教関係物が破壊され、何千人もの僧侶に、還俗(げんぞく)を強制した。
だが、ふたたびここで「神仏判然令」なるものの解釈、施行は、各地での機関に託され一任したために、国学そのものを強く支持する地方の役人ほど仏教に対する破壊力は強烈であったといわれる。
たとえば、旧薩馨藩の指導者たち、明治維新の立役者たちは、1869年までにこの地方一帯の仏教色をすっかり消滅させてしまったのである。四千五百もの寺院が消えさり、僧侶は還俗させられたばかりか、十八歳から四十五歳までの者は、即刻、新たに編成された国軍への編入を強いられることとなり四十五歳以上の者に至っては、二の地方の教師となるものが多く、十八歳末満の者は家族のもとへと帰されていった。
▶︎既成仏教教団の反応
自分たちの存在に対するこれまでの弾圧に対し、既成仏教教団の中からは、早い時期に対応策が生じ、中でも最も早かったのに、真宗の東西両本願寺の対策があったといわれる。表向きには、驚くことにこの両本山は、金策に苦しむ新政帝に対して相当額の貸付けを申し出たことである。これによって、つまりこの俗にいう一種の賄賂によって政府側は、自ら打ち出した宗教政策に柔和な態度を示したのだ。
この両本山は、1868年の夏、諸宗同徳会盟を結成すべく指導的役割を果たしている。徳川時代には超宗派的ないかなる組織も禁じられていたために、これはかつてない読みであったといえる。この新しい組織はまず王法(おうぼう)、仏法の統一をはかることを誓い、第二にはキリスト教を攻撃するのみならず、日本から排除することを呼びかけた。
明治初期に仏教諸宗が大同団結して結成した組織。同盟会、諸宗同徳会などとも呼ばれる。神道国教化や廃仏毀釈などの圧迫を受ける中、臨済宗大隆寺韜谷と真宗興正寺摂信が中心となって僧侶を糾合する組織を作ることとなり、明治元年(一八六八)一二月に興正寺において最初の会合が開催された。議論の中心には破邪顕正が据えられ、キリスト教への対抗が会盟の基本的課題となる。同二年三月には、キリスト教の侵入を防ぐ旨の誓約書を朝廷に提出、翌月には「王法仏法不分離」「邪教研窮毀斥」「自宗旧弊一洗」などを審議題目として定めた。運動は東京、大阪、金沢へと拡大し、同五年中頃まで続いたといわれている。浄土宗からは養鸕徹定、福田行誡らが参加した。
仏教の指導者は自らの信仰を復活させる方法は、当時強さをきわめつつあった国家主義的な動きと一体になるのが最良であると考えた。日本の新しい国家主義的なリーダーたちに仏教の有益性を示すため、当時の破邪顕正という反キリスト教的を運動を支持することにあるとも考えた。
※【破邪】とは、邪説・邪道を打ち破ることを言います。 【顕正】とは、正しい仏の教えをあらわし、明らかにすること。
1868年九月十七日、太政官はこうした前向きな行動を評価した手紙を、東西両本願寺に送っている。この中で、政府の意向を代弁していると称する役人たちが仏教を攻撃することがあるが、これは大きな誤りであると強くたしなめた一節がある。さらに「こうした口汚い、罵詈(ばり・口ぎたなくののしること)雑言を述べる反逆者たちは一般に大衆を怒らせていた」。
では、大衆をいかほどに怒らせたかといえば、地方の役人たちの反仏教的な処置に対する、強い抗議活動がこれを明らかにする。1870年の暮れ、富山において抗議活動がはじまり、翌年(1871)、三河や伊勢などでも同様の暴動が生じた。
1873年には、越前の三カ所で農民たちが立ちあがり、鎮圧するために兵士まで送り出したのであった。仏教徒の立場を考えるきっかけとなったのが、このような一般大衆の蜂起に対する恐怖心から生じたと言えなくもない。新政府が仏教に反する全面弾圧は不可能で、また安全なものでないことに次第に気づいていった。だからこそ、新たな解決策を見い出さなければならなかったのである。
▶︎解決の改善策、最初の試み
明治政府の政策において、仏教に対する最初の大きな変化は1872年の初めに行なわれた。そのとき、「神祇省」から「教部省」へと変わっていた。この新しい省は、神社、寺院の建設と廃止、またはその関係者の位や権利における管理責任を与えられた。だが、ここで最も大切な役どころは、前年作成された「大教」の宣伝をすることにあった。その基礎は三条教則にあるといわれる(明治五年四月二十八日)。
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ専
一、天理人道ヲ明ニスベキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ尊守スベキ事
これを普及させるべく教部省は、教導職を設ける。ここでの指導者は教院(神社、寺院)という名にかえて全国的に布教活動を施行した。仏教にとって、この活動は、僧侶たちが、神主や国学者と共に国家に支えられた組織に仲間入りすることを許されたのである。
このような教導職を設置することによって、国は事実、国家聖職を設けることとなった。国に認可された者だけが人々の面前で布教や儀式を行ない、神社や寺院の居住を許されたこそれにもかかわらず仏教僧たちは迫害から逃れるために積極的に教導職に就(つ)こうとした。僧侶たちが、どれだけこの制度を利用したかといえば、認可された教導職の中、十万三千人中、なんと八万一千人に及んでいる。このうち真宗関係者は二万五千人、一つの宗派としては最大であった。
だが、仏教者たちは、この新しい国家宗教に加入すべく重い代償を払っている。この組織が精神的な意味で神道に支えられていた面があり、かつ管理されていたからでもある。すべての教導職員は、神主の法衣をつけ、祝詞をあげ、神道の儀式を司(つかさど)っていた。教部省は、東京芝の有名な寺で、しかも徳川家の菩提寺であった増上寺(浄土宗)に本部をおいて「大教院」と名づけた。増上寺を大教院として活躍させるにあたって改造させている。ここでの改善策はまず、仏壇の中央に置かれた阿弥陀仏を排除し、かわりに神道の四柱の神々を配置、八月には鳥居を建てたのである。
増上寺での関係者たちは、この制度を支援すべく、自分たちの小寺院(末寺)にその改善費捻出を命じている。だが、表面上、協力的な出だしであるかのように見えたが、実際には、やがて仏教側と神道側の衝突は避けられないものとなっていた。
反廃仏毀釈運動が下火になるにつれ、仏教者側は神道の支配から次第に遠ざかっていこうとした。ちょうどこのとき十月、太政官は、1872年四月二十五日、新たなる争いとなる条例を発布した。これは太政官布告第百三十三号と称するもので、僧侶たちは、好みに応じ肉食妻帯、髪を伸ばすことも、洋服の着用も許されるといった内容であった。
この条例は何を禁ずるのでもなく、命令するのでもなかったが、多くの仏教指導者は、ふたたびこれが仏教に対する新たな攻撃と受けとめていた。彼らにすればこの条件は、かつての神仏判然令の延長線上にあったとした。仏教が国家から完全に引き離されてしまったからである。
この条例に強く反発した仏教側に、いくつかの宗門レベルでの抗議集会や、嘆願書が作成され、それには二百人をこす僧侶たちが署名している。怒りにもえた僧侶たちは、太政官に直訴もした。皮肉なことに、この布告は、曹洞宗の有力な僧、鴻雪爪(おおとりせっそう・1814-1904)によって作成されていた。
鴻雪爪 Kou Sessou1814~1904
備後国因島(尾道市)に生まれる。大垣全昌寺の無底和尚の元で嗣法し同寺に住山。小原鉄心の知遇を得、福井藩主松平春嶽の帰依を受ける。木戸孝允、大久保利通、岩倉具視らと交流し宗教行政に大きな影響を与えた。曹洞宗の名僧。明治37年に没。