任那(みまな)
■日本の影響下にあった地域とは
■三国の成立と任那 話は「衛氏朝鮮」が滅亡した頃にさかのぼる。実はこの時期、中国による直轄領設置以外にも、衛氏朝鮮を挟むようにして新国家建設の動きがあった。北方では強国高句麗が誕生し、南方の漢江から南では、辰国(しんこく)という共同体が3つに分かれて「馬韓」「辰韓」「弁韓」を形成した。
衛氏朝鮮を滅ぼした中国の漢帝国はというと「後漢」の時代に入ったが、184年には中国全土で巻き起こつた「黄巾の乱」をきっかけとして衰退、「三国志」の時代が始まる。中国の混乱は朝鮮半島の勢力図にも影響を与えた。
中国の「魏・呉・蜀」の三国はやがて魏一国に淘汰され、その魏もあっさりと西晋に変わるのだが、その西晋で291年「八王の乱」が起き混乱すると、高句麗が中国の直轄領・楽浪郡・帯方郡を駆逐し、一挙に朝鮮半島の北半分を掌中に収めてしまったのだ。
これに対し、南部の3国が大いに慌てたことは想像に難くない。馬韓では伯済国(はくさいこく)が中心ろとなって「百済」を建国し、都を漢山城に置いて政治組織の整備に入った。辰韓でも斯慮(しろ)国が地域を統一して国号を「新羅」とし、本拠を慶州に置いた。
こうして日本の古代史と深く関わることになる高句麗・百済・新羅の3国が誕生したこ百済・新羅を除く、弁韓に属する諸国は高句麗と国境が接しておらず警戒心が薄かったのか、統一国家が創られることはなかった。
(朝鮮半島三国の位置関係)
空白地帯となつたこの旧弁韓地域に影響力を行使したのが、海の向こうの漉小我が国、倭国であった。「日本書紀』によれば、旧弁韓地域の任那に「任那(みまな)日本府」が置かれ、そこは倭国の強い影響下にあったという。しかし、この説は今日多くの学者の間から否定されている。根拠となる考古学上による文物はないのである。伽耶國を倭国が統治していたという事実もなく、明治から昭和戦時中まで軍事政権下による恣意的意図があったのではないかとも言われている。
『日本書紀』に登場する任那日本府をどう解釈するかは、日韓の歴史解釈上の対立点の一つである。従来、韓国側は、任那日本府を、その存在自体を完全に否定したり、大宰府の別称と推定したりしていたが、近年では、金泰植のように、朝鮮半島の安羅にあったことを認めた上で、任那日本府を安羅に臣従する倭人官僚がいた外務官署とみなし、「安羅倭臣館」と呼ぶべきだと主張する学者も出てきている。
「任那日本府」は6世紀当時の用語でもなく、間違った先入観を呼び起す用語であるため、より事実に近い安羅倭臣館という用語に交替するのが妥当である。そして安羅倭臣館は、540年代に加耶連盟が新羅と百済の服属の圧力を受けていた時期に、加耶連盟の第二人者であった安羅国が自身の王廷に倭系官僚を迎え入れ、倭国との対外関係を主導することで、安羅を中心にした連盟体制を図るために運営した外務官署のような性格の機構であった。しかし550年を前後して、この機構は相互間の同盟関係を強固にしていた百済と倭王権の不信任の中で解体された。
たしかに、「日本」という国号の成立は7世紀であるから、6世紀に「任那日本府」が、このような漢字表記で記されていなかったことは確かである。『日本書紀』では、倭も日本も、ともに「やまと」と訓まれており、国号の変更に伴い、「倭」が「日本」に書き換えられている。だから、『釈日本紀』が注釈するように、任那日本府は、「任那之倭宰(みまなのやまとのみこともち)」と記すのが適切である。
「古代韓国に日本が影響を及ぼす地域があった」というのは韓国人には受け入れ難いらしく、存在の真偽を巡っては、現在に至るまで論争が続いている。
※「日本書紀」奈良時代に完成した日本最古の公式の正史。神話の時代から持統天皇までの朝廷に伝わる伝説・記額などが記述してある。全30巻。
「任那(みまな)」という名称については、4世紀半ばに日本の後押しを受けていたとされる金官国(きんかんこく)が、旧弁韓地域の伽耶(かや)諸国の指導的地位に就いていたのだが、金官国の別名を任那といったことから、地域全体を任那と呼ぶようになつたといわれる。5世紀末になると、現地では任那の語は用いられなくなったが、日本では長い間任那と呼ばれていたようだ。
▶︎前方後円墳
当時の日本と韓国の関わりを示すうえで、重要なのが日本の王墓「前方後円墳」だ。
仁徳天皇陵(現在は「伝仁徳天皇陵」と教えられる)に代表される、円形と方形を組み合わせた巨大な墓である。近畿地方が発祥地とされ、南は鹿児島県から、北は岩手県に至るまで日本中に分布している。
実はこの形、日本独自のものだ。多くの文化と同じく、「甕棺墓(かめかんぼ)」や「支石墓(しせきぼ)」といった埋葬方法は朝鮮半島から伝わったが、前方後円墳だけは別だ。
朝鮮半島でも前方後円墳は14基発見されている。だが、その地域は驚くべきことに、すべてが旧任那地域を含む朝鮮半島南部に集中している。この事実からは、「倭国の影響下にあったために、日本風の王墓があった」、もしくは「朝鮮半島南部の文化が、倭国に伝わって花開いた」という2通りの仮説が導ける。
成立時期を調べてみると、朝鮮半島で発見されたものは5世紀頃のもの、対して日本の前方後円墳は3世紀頃から造られはじめ、4世紀に全盛期を迎えている。時系列を考えれば日本から伝わったと見るのが自然である。
※前方後円墳日本の古墳の形式。炊旧称として「茶臼山」などとも呼ばれる。
ちなみに朝鮮半島の古墳は、新羅では円墳がほとんどで一部に双円墳が混じり、百済で発見された古墳はほとんどが円墳であった。高句麗に至っては円墳が見られず、方墳ばかりが発見されている。
埋葬されている者については、「朝鮮半島の首長」と「倭国の有力者」で未だに議論が続いているが、相当な有力者の証である前方後円墳がつくられる倭人が、半島に渡っていたとすれば、彼らは領地を治める日本人官僚や有力な移住者だった可能性が高い。
程度のほどは別にして、この頃の朝鮮半島に日本が直接的な影響力を行使していたのは間違いないだろう。
※日本から伝わった他にも、新羅・百済・伽耶の勢力圏内では、日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイの産地がない。
【先進的な文化を持ち込んだ】
■百済と大和朝廷の関わり
▶︎百済と日本
日本と古代朝鮮の関わりを語るうえで、欠かせないのが百済の存在である。 半島の強国・高句麗は342年、中国の燕国(えんこく)に大敗して北上を諦め、南部に目を向け始める。360年代に入ると高句麗の本格的な侵攻を受けた百済は窮地に陥る。そこで目をつけたのが、西日本を統一し、半島への領土的野心を見せていた日本の大和朝廷であった。
新羅も百済も、九州地方よりも小さい小国である。高句麗の脅威を退けるためには、あらゆる手段を使わなければならなかった。
364年、百済の近肖古(きんしょうこ)王は、倭国と国交を開くため、倭国と繋がりを持つ金官国と親しい旧弁韓地域の卓淳(たくじゅん)国に使者を送る。仲介を期待したのだ。両国の接近の様子は『日本書紀』で知ることができる。神功(じんぐう)皇后の命令で卓淳国に駐在していた斯麻宿禰(しまのすくね)のもとに、使者の情報が入る。
※神功皇后(じんぐうこうごう)仲夏天皇の皇后。夫と共に九州の熊襲征服に向かい、さらにお腹に子どもがいるまま朝鮮半島に出陣し、諸国を従えたという伝説が残っている。
卓淳の王が彼に言うには「百済から使者3人がやってきて、百済王が倭国へ使者を派遣したいから倭国への道を教えてほしいと尋ねてきた。知らないので、大きな船に乗ってようやく行くことができることは伝えた。もし、倭国の使者が訪ねてきたら伝えてほしいと現在、百済から贈られた七支刀が保管されている奈良県の石上神宮言い残して帰って行った」。
さっそく斯麻宿禰(しまのすくね)は従者を百済に派遣する。近肖古土(きんしょうこ)は感激し、翌年4月には倭国へ使者を派遣し朝貢した。こうして、倭国と百済の軍事同盟関係が始まったと言われる‥ちなみに、それを記念して作られたのが有名な「七支刀」である。
※七支刀奈良県天理市の石上神宮が所蔵している鉄剣。全長約75センチ。左右に3本の刃が出ており、中央の先の刃も入れると7本になる)『日本書紀では「七枝刀」。
369年には、倭国が卓淳国を基地に新羅に侵攻。
次いで比・目、卓丁淳、加血椎などの7国を平定したという。さらに西に回ると済州島を攻略。
百済の近肖古(きんしょうこ)王と王子の貴須( くゐす)も軍を率いて参降して批利、中、布、支、半古などを降伏させた。百済王父子と倭国軍は合流して勝利を祝い合ったという。
大和朝廷を後ろ盾にして勢いに乗る百済は、371年には北上して高句麗の都・平壌を攻め、故国原(ここくげん)王を戦死させたようだが、快進撃はここまでだった。その後、百済と倭国、任那(みまな)の諸国連合の総力を結集して挑んだ高句麗との決戦において、百済は大惨敗を喫してしまう。
475年には反撃にあって都・漠城が陥落したため、百済は南下して熊津(ゆうしん)へ遷都した。
▶︎聖明(せいめい)王と仏教伝来
ところで、百済は軍事面だけではなく、文化の輸出元として日本に大きな貢献をした。
倭国を高句麗に対抗できるだけの強国にするため、百済は大陸の先進的な文物を倭国に持ち込んだ。仏教もそのひとつで、552年には百済の聖明王から欽明天皇に釈迦如来像、経典、仏具などが献上されたのである。日本人は仏具を重宝して病気の回復、祖先の供養、雨乞いなど現世利益を期待して礼拝したという。
550年、息を吹き返した百済は、新羅と同盟を組んで北進し高句麗を攻撃した。 翌年に新羅は天安地方を占領。百済は70年ぶりに漢城を奪回した。ところが、ここで新羅が手のひらを返して、553年に漢城を奪ってしまった。これによって百済は高句麗のみならず新羅も敵に回すことになる。
翌年、百済の窮地に倭国は100艘の援軍を派遣する。聖明土は物だけではなく、僧侶をはじめ、儒教の五経博士、易博士、暦博士、医博士、採薬師などの人材を倭国に提供していた。止利(鳥)仏師の百済の仏師と言われる。
※欽明天皇継体天皇の第4王子。即位は539年という。「日本書記」によれば在位中に百済の聖明王から仏典や仏像を献上され、初めて朝廷が仏教に触れることになったという。
有名な蘇君子の父・稲目、すでに仏教に傾倒する臣も多く、百済は大切な同盟国だったのだ。そうして倭国と連合した百済であったが、新羅に敗れてしまい伏兵に襲われた聖明王は戦死してしまった。
▶︎高句麗と隋・唐の戦い
高句麗に目を転じると、同国は百済や新羅の他に中国と国境が接していた。6世紀末には分裂した中国を王朝・隋が統一)高句麗と真正面から激突することになつた。7世紀に入って大軍で高句麗領に攻め込んだ隋軍だったが、名将・乙草丈徳(いつしぶんとく)がこれを懺滅。
隋はやがて国力を疲弊させて滅亡するが、後を承けた唐も内政を整備するとすぐさま高句麗に侵攻した。今度は皇帝・太宗が直接軍を率いての遠征だつたが、高句麗は「安市城の戦い」でまたも唐を撃退することに成功した。
高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家ではあるが、韓国の国家がここまで中国王朝と渡り合うのは珍しい
※隋 中国の王朝。北周の武将楊堅が樹立した。中央集権的な帝国を築いたが、2代目には早くも乱れ、3代で滅亡した。その政治制度は後々まで受け継がれた。また、日本とも国交を結んだ。
▶︎百済滅亡まで
さて、王が死んで勢力が削がれた百済だったが、641年に勇猛な義慈王が即位すると、新羅に対抗せんと仇敵関係だったはずの高句麗と密盟を結ぶ。北からの攻撃を心配することなく新羅の攻撃に向かった結果、旧任那(みまな)地方の大半を奪うことに成功する。
たまらず新羅は高句麗に助けを求めたが、百済と密令を交わしている高句麗が動くことはなかった。ここまでは義慈王の計算通りだったのだが、追い込まれた新羅は高句麗と対立していた中国の王朝・唐に援助を求めた。敵の敵は味方ということである。
事態を大きく動かしたのは、唐の3代目皇帝・高宗。彼は百済を滅ぼせば、その同盟相手である高句麗も弱体化すると踏んで、660年に約13万人もの兵を海上から派遣。新羅軍と合流し百済領になだれ込んだ。
義慈王も大軍を相手に為す術なく、あっけなく百済王国は滅亡してしまった。 しかしその後、百済の家臣・鬼室福信(きしつふくしん)を中心に百済再興運動が起こる。倭国には人質として滞在していた王子・余豊璋(よほうしょう)が健在だったため彼を王に立ててリベンジを目指したのだ。百済が滅べば、倭国にとっての半島での足がかりが消えてしまうことになる。
当時の日本は「大化の改新」で中大兄皇子が実権を握っていた。彼の判断によって百済救援の軍を派遣するのだが、倭軍は有名な「白村江の戦い」で唐の水軍に惨敗。百済は完全に滅亡し、新羅と高句麗が残され、日本の朝廷は完全に半島から手を引くことになる。
※大化の改新645年、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり、蘇我氏を倒壊させた一大政治改革。その目的は地方民族の統制強化と、・甲央政府の内部整備であった。それまで地方蓑族私物であった土地は天皇のものとなり、戸袋仰が作成され、税制が整えられた。
▶︎朝鮮半島統一
百済が滅んだことによって、孤立したのは高句麗であった。唐と新羅に挟まれ窮地に陥ったのだ。新羅・唐の連合軍は高句麗を攻撃するが、さすがに中国の王朝と互角に渡り合ってきただけに、そう簡単には降伏しなかった。しかし内部対立が生じてしまい、668年、ついに首都の平壌城が陥落して滅亡した。
さて、こうして新羅だけが残ったわけだが、唐が不穏な動きを見せる。平壌に安東都護府を、新羅本土に鶏林大都督(けいりんだいととく)府を置いて半島を支配する意欲を見せる。最後の仕上げとして新羅を併呑することで、朝鮮半島を手中にしようとしたのである。
しかし、唐にとって誤算だったのは、百済や高句麗の道民が新羅に協力したことである。何世紀にもわたって対立を繰り返してきた3国だったが、ついに唐を追い出すために一致協力したのである。
戦争は新羅が仕掛けたことで開始され、唐も20万に及ぶ大軍を投入して本気を見せたが、錦江河口では海戦で、買肖では陸戦で新羅に撃破され、半島からの撤退を余儀なくされた。こうして日本・中国を巻き込んで展開された朝鮮版「三国志」は集結し、676年、新羅が三国を統一したのであった。
※三国を統一韓国の歴史教科書では、長期間にわたって高句歴・ 新羅・百済に国家が分かれ、それぞれが多種多様に国際関係を結んだり、文化を発展させたりしたことが、後々の半島の経済・文化的発展に肯定的影響を与えたと評価している。