I・明治・大正の洋画
■ 明治・大正期の洋画
明治30年代の洋画界は、黒田清輝や藤島武二により創設され、外光表現を取り入れた明るい 作風の「白馬会」と、暗い色調で写実的作風の「明治美術会」(後に「太平洋画会」と改称)との対立 拮抗の上に展開していた。この頃に活躍していた県内出身の作家としては、日本最初の「洋画家」 と称される高橋由一に学んだ五百城文哉があげられる。五百城は後年中央画壇から離れ日光に 隠棲したが、師である高橋ゆずりの綿密な描写力で優れた作品を残した。
明治末から大正期になると、フランスなどで絵を学んだ画家たちが、印象派やポスト印象派 などの新しい美術動向を日本に紹介した。本県を代表する洋画家中村葬は、病のために渡仏す ることはかなわなかったが、日本にいながらルノワールなどに傾倒して独自の画風を築いていっ た。葬の周辺には多くの芸術家仲間が集い、後進の作家たちにも大きな影響を与えた。
大正期にフランスで学んだ県内出身の画家として、辻永や熊岡美彦がいる。彼らはその後、 県内の洋画壇における指導者的な役割を果たしていく。
▶︎袋田の滝 明治25(1892)年頃 五百城 文哉(IOKI,Bunsai)1863ー1906
幕末、水戸藩士の家に生まれた五百城文哉は、日本の油彩画の先覚者である高橋由一に学んだ。五百城は、明治25年頃に大子の名港袋田の滝を訪れて、この作品を描いた。四段に流れ落ちる滝の姿が、綿密な描写力により細部まで克明に表されている。内国勧業博覧会などで活躍するが、日光に隠棲して中央画壇から離れた。植物学者らと交流し、写生をもとにした植物画を数多く残した。漢詩や書などにも優れた文化人であった。
▶︎自画像 明治42(1909)年頃 中村 彝 1887−1924
明治20年、水戸に生まれた中村彝は、17歳で結核を患い、37歳で天逝した作家である。彝は持病と闘いながら独自の画風を展開した。明治39年に白馬会の研究所に入所し、翌年には太平洋画会研究所に移って研鐸を積み、同42年の第3回文展での入選を契機に文展や帝展等で活躍した。同44年以降は新宿中村屋真のアトリエに住み、中村屋主人の世話になる。やがて、中村屋の娘と恋愛関係になるが、それが成就することはなかった。
▶︎静物 大正5(1916)年 中村 彝 1887−1924
大正5年、彝は新宿下落合にアトリエを構え、闘病の中で制作を続ける。このようななか、セザンヌの画集をみて傾倒を深めたり、実見したルノワールの作品に感銘を受けて模写したりするなど、フランスの画家たちを研究し、それを作品に昇華させていった。
▶︎夏の朝 大正10(1921)年 辻 永 (つじ ひさし) 1884−1974
明治34年、水戸中学校(現水戸一高)を卒業、東京美術学校(現東京藝大)に進んだ。同37年の白馬会展で初入選。大正9年に渡欧、パリを拠点にヨーロッパ各地を訪れ、翌年に帰国した。辻の作品は、後述する白牙会(はくがかい)メンバーに感銘をあたえ、第1回〜4回までの白牙会展に賛助出品したり、白牙会が準備を担った常総洋画展で審査にあたったりした。戦後、茨城県美術展でも顧問をつとめるなど、指導的な立場にあった。昭和33年より社団法人日展の初代理事長も務めた。同34年、文化功労者。
▶︎花 大正12(192う)年 中村 彝 1887−1924
晩年の彝は、キュビスム(立体派)のような単純化・複合化した作品や、宗教性を帯びた表現主義的な作品を描くようになった。大正12年の関東大震災に遭うが命拾いをし、「残存する全生命の死力を尽くして」制作に打ち込む彝であったが、翌年その短い生涯を閉じた。
▶︎抱かれたる子供 大正10(1921)年 熊岡美彦(よしひこ) 889−1944
石岡に生まれた熊岡は、土浦中学校(現土浦一高)から東京美術学校(現東京藝大)西洋画科へ進学し、藤島武二らに学んだ。在学中の明治43年、白馬会展で初入選。卒業後は光風会展や文展に入選し、大正8年の第1回帝展で特選、同10年の第3回帝展でも本作「抱かれたる子供」が特選となった。
▶︎緑衣 大正14(1925)年 熊岡 美彦 1889−1944
大正14年の第6回帝展では「緑衣」が第1回帝国美術院賞を受賞。熊岡は在京ながらも、土浦や水戸で開催された展覧会に出品しており、辻とともに第1回から4回展まで白牙会の展覧会に賛助出品、また国展には「客員」の立場で出品している。