Ⅲ 戦後の担い手たち

■Ⅲ 戦後の担い手たち

 終戦前後に東京で活躍していた作家たちが帰郷したことを契機に、県内各地では様々な美術 グループが誕生した。たとえば、服部正一郎と鶴岡義雄は、昭和21年に二科会の茨城支部を結成した。また、同22年6月に土浦では第1回目となる「土浦市美術展覧会」(土浦市展)を開催しているが、服部らはその母体となった「土浦市美術協会」をもとに、同23年に県南地方の美術家が集う「県南美術協会」を発足させた。

  

 戦後の白牙会では、菊池五郎や斉藤勇太郎のもとで、初入選時には学生や卒業後まもない若者であった平野逸郎や柴田三千春、酒泉淳、小又光らが中心メンバーになり始めていた。しかし、昭和24年に鈴木良三や服部らが「茨城洋画会」を結成して退会したことや、全県的な公募展である「茨城県美術展」が創設されたことなどが影響して同29年に解散に至った。

 昭和21年に文部省主催で始まる日展では、水彩連盟の創立者でもある小堀進や、下館(現筑西市)出身で熊岡絵画道場に学んだ森田茂らが早い時期から活躍した。

▶︎パラソルの女 昭和23(1948)年鶴岡 義雄 1917-2007

 大正6年に土浦で生まれた鶴岡義雄は、昭和12年に上京して日本美術学校へ入学、林武に師事した。同14年に二科展で初入選、以後同会で活躍した。戦後の同21年には茨城二科会の創立に参加、同22年に始まる土浦市美術展覧会の開催にも尽力した昭和44年にサロン・ドートンヌ会員同48年にはフランスに渡ってアトリエを構えて1年ほど滞在した。この頃より、日本の伝統美についての認識が深まり、「舞妓」をテーマにした作品を制作するようになる。平成6年、日本芸術院会員。

▶︎遠足にて  昭和22(1947)年 柴田 三千春(みちはる) 1911−1968

 水戸に生まれた柴田は、茨城師範学校(現茨城大学)在学中より白牙会の菊池五郎に師事し、昭和4年の第6回白牙会展に初入選した。戦後、同22年の第3回日展で本作「遠足にて」が入選。菊池のアトリエに集った作家の一人であり、『白牙会二十五周年の莱』では、菊池五郎、小又光、酒泉淳、平野逸郎らとともに指導者として名前が掲載されている。白牙会解散後は、小又、平野らとともに、榎戸庄衛を客員に招き、「水戸造形グループ」を結成した。

▶︎五浦風景 昭和26(1951)年 斉藤 勇太郎 1898−1980

 久慈郡太田町(常陸太田市)出身の斉藤は、大正13年の白牙会結成に参加して菊池五郎や林正三ら創立メンバーとともに展覧会の運営に携わった。林が昭和7年ごろより白牙会の運営から遠ざかった後も、菊池とともに会の運営にあたった。戦後の第1回茨城県美術展覧会では委員として作品を出品している。昭和35年には新世紀美術協会茨城支部の結成に参加した。

▶︎霞ケ浦  昭和2(1954)年 小堀 進 1904−1975

 小掘進は行方郡大生原村(現潮来市)出身。昭和7年に白日会展及び日本水彩画会展で初入選。翌年に二科展初入選、以降同14年まで出品。同15年には同志らと水彩連盟を結成し、中心的存在として活躍した。

 一貫して風景画を描き、昭和30年頃に不透明水彩による明るい鮮やかな色彩と明快な構図、大胆な筆致を特色とする「小堀様式」を完成させた。同33年に日展評議員、同44年に日展理事。同49年には水彩画家として最初の日本芸術院会員となった。

▶︎砂丘  昭和23(1948)年  酒泉(さかいずみ) 淳(あつし) 1920−2006

 水海道(現常総市)出身。父が土浦高等女学校(現土浦二高)の美術教員となり、土浦で過ごすことになる。昭和5年に土浦中学校(現土浦一高)を卒業、この年の白牙会展で初入選を果たす。昭和7年ごろ、水戸の菊池五郎のアトリエで洋画の基礎を学んだ。同11年に美術教師となるが、この頃に小堀進と出会い本格的に水彩画に取り組んだ。同13年白日会展に初入選、同18年白日賞、同22年会員。戦後は日展で活躍(同33年特選)するほか「水彩連盟茨城支部」を結成し、同会メンバーとして活躍した。水戸一高教員も務めた。

▶︎踊る  昭和24(1949)年 小又 光(おまた ひかる)  1919−1978

 久慈郡西小沢村(現常陸太田市)出身熊岡美彦の熊岡絵画道場で学ぶ。白牙会では昭和11年の第11回展で油絵が初入選し、以降、第23回展(同29年)まで欠かさず出品した。同23年白牙会会員。同28年創元会会員。小又は菊池五郎のアトリエに足繁く通った画家のひとりである。戦後は日展に出品しながら県展の運営にも尽力し、酒泉淳、柴田三千春、平野逸郎らとともに後進の指導にもあたった。昭和29年に柴田、平野らと「水戸造形グループ」を結成した。

▶︎黒川能  昭和48(1973)年 森田 茂 1907−2009

 下館(現筑西市)に生まれる。昭和7年に熊岡美彦の熊岡絵画道場に入門。同8年の第1回東光会展で初入選、翌年第15回帝展にも初入選。昭和41年に山形県の庄内地方でみた伝統芸能の黒川能に感銘を受け、これをテーマとした作品を描く。同年の日展で「黒川能」が文部大臣賞。同51年に日本芸術院会員、平成元年に文化功労者、同5年に文化勲章。